バナロッテとアーガスは本当は姪と叔父という関係だ。しかし、バナロッテの方が半年近く早く生まれていたこともあって、アーガスに対して「叔父さん」という感情は抱けずにいた。というのも、二人と同じ年の従弟シャドウとも常に一緒に遊んでいたため、アーガスとシャドウになにか違いがあるとは思えなかったのだ。しかもアーガスはバナロッテが「叔父さん」とふざけて呼んだだけで怒ったものだ。だからいつも「アーガス」と呼び捨てにしていた。成人するまではそれで良かった。
しかし、成人の儀式が終わった翌日、母タイトネイブはまじめな顔をしてバナロッテにこう言ったのだった。
「もうアーガスのこと呼び捨てにするのやめなさいね」
「どうして?」
バナロッテは唇をとがらせた。
「成人したって今まで通りでいいじゃない」
「よくないのよ。アーガスはお前の叔父さんなんだから」
「分かんないよ」
母は本当に事情が理解できないでいる娘を見て顔を曇らせた。バナロッテの頬を両手で触れると、真剣な表情で、娘の顔をのぞき込んだ。
「ママは一度しか言わないから良く聞いて。アーガスとおまえは血が近すぎるのよ」
バナロッテはそれを聞いて、腹立たしさを覚えた。
「いやだ、ママったら。それじゃあたしがアーガスのこと好きみたいじゃない。そんなバカなことありっこないって」
なんとか冗談めかして言おうとする。それでも母の表情は変わらなかった。
「今はそうかも知れない。でも、将来はどうなるかなんて分からないの。おまえはただでさえ、ナァム家の人間で制限を受けているのに、ごめんね」
バナロッテはどうして母が謝るのか分からなかった。それよりも、悲しそうな母の表情が辛くてバナロッテは努めて明るく振る舞おうとした。
「いやだな、ママったら。考えすぎよ。あたしが子分みたいなアーガス、あ、ごめんなさい、アーガス叔父さんのこと好きになると思ってるの?世の中には素敵な男性がたくさんいるんだから、ね」
「そうね、考えすぎだったわね」
母の顔が少しだけ明るくなった。
「じゃあ、おまえのこと信じているから」
そう言い残すと、母は家事をするためにその場を立ち去ってしまった。
残されたバナロッテは今のことを思い返してさらに腹が立ってきた。
(誰が、アーガスのことを好きになるですって?冗談じゃない。第一、仲良くしなさいってずっと言ってきたのはママじゃないの。成人したとたんに手のひら返すなんて。だったら最初から仲良くしなければ良かった)
そう思うのは理不尽であることはバナロッテ自身良く承知していた。両親(つまりバナロッテの祖父母)を早く亡くしたアーガスは血縁関係のないガアチウルグ長ヒッチ・マキムラの元に引き取られていった。ヒッチは男やもめなのに実子が二人、そしてアーガス以外にも自分自身の甥を養子に迎えていたため、アーガス一人に注意を払えるはずがない。実際、アーガスはひとりぼっちでいることが多かった。そしてそのアーガスの孤独を誰よりも良く理解しているのはバナロッテだったのだから。
母がシャイアルにアーガスを養子に迎えられないか交渉したらしいが、むげに断られたとも聞いている。プルト共和国では自分の弟妹を養子に迎えることは許されていないらしい。
バナロッテは自分の中のもやもやを振り払うように息を吐き出すと、気分転換に散歩をすることにした。
タラの港をぶらぶらと歩いていると、アーガスがリムの個人商店で買い物をしているのが目に入った。知らんぷりしてそのそばを通り過ぎようとしたが、何も知らないアーガスの方が声をかけてきた。
「ロッテ!君も買い物?」
「違うわよ」
バナロッテは口をとがらせた。もともと愛くるしい顔のバナロッテがそういう表情をすると、とても魅力的になる。アーガスは困ったように目を伏せた。
「なんか怒ってるでしょ」
「べつに」
バナロッテはそう言いつつ、胸が苦しくなる。
「あたし、急いでいるから」
「う、うん…」
きょとんとしているアーガスを残して、バナロッテはその場を立ち去った。
(アーガスは悪くない。悪くないのに)
バナロッテは泣きたくなった。昨日まではなんのこだわりもなく気軽に話したり遊んでいた二人の仲が、叔父・姪という関係で引き裂かれたような気がしたのだ。
母が危惧しているような関係になるはずがない、そう思っていた。なぜならバナロッテが1年前からほのかに思いを寄せている相手は義理の祖母パイの弟オブライアンだったからだ。また、アーガスが年上のジギタリスのことが気になっているらしいということは知っていた。個人商店での買い物もジギタリスへのプレゼントなのだろう。
(そうだ、思い切ってオブライアンさんに告白してみよう)
バナロッテは決意した。
バナロッテの告白はあっけなく成功した。物静かなオブライアンは、積極的なバナロッテのデートの誘いに驚いたようだったが、嬉しそうに承諾してくれた。やがてアーガスもジギタリスと交際を始めたようだった。
お互い恋人が出来たことだし、意識することなんてもうない、とバナロッテが安堵したのもつかの間、憧れていたオブライアンは実は退屈な男性であることに気が付いてしまったのだ。話し下手だし、バナロッテをリードしてくれることもない。デートしてもさっぱり心ときめかないことにうんざりし、次第に疎遠になっていってしまった。
そんなときふと気になったのが、アーガスとジギタリスとの仲だった。どこまで進展しているのだろう、もうキスはしたのだろうか、そう思ってバナロッテは思わず赤面してしまう。
(あの二人、さっさと結婚してしまえばいいのよ)
腹いせにそう思った。
なのに、ある日バナロッテはリムウルグで働いているとき、ジギタリスから思いがけないことを言われる羽目になった。
「ちょっと相談に乗ってもらえないかな」
まじめな顔でジギタリスは言う。バナロッテは断る理由もなかったので、手を休めて話を聞くことにした。
「アーガスってさ、奥手なわけ?」
飾り気のない性格のジギタリスは単刀直入に切り出す。バナロッテは目を白黒させた。
「なんていうかさー、いっつも無難な話しかしないんだよね。あたしとデートして楽しいのかなーって思っちゃうんだ」
バナロッテは首を傾げるしかなかった。アーガスに対してそういうイメージは一切なかったからだ。だからバナロッテはジギタリスを元気づけるつもりでこう言ってみる。
「きっと、ジギタリスさんにリードしてもらいたいんですよ」
「そうなのかなあ…。だって、キスしようって言っても断られちゃうんだよ」
バナロッテはそれを聞いてひっくり返りそうになった。そんなことをさりげなく言ってしまうジギタリスに対してもそうだったが、女性にそういうことを言わせておいてから断るアーガスに対しての驚きの方が強かった。
「信じられません! 一度アーガス、じゃなくて叔父さんにお説教しておきますよ」
「よろしく頼むわ。ロッテちゃんの言うことを一番良く聞くって噂聞いたからさ〜」
ジギタリスは屈託なくあははーと笑ったのだった。
その晩、バナロッテはバハ区西邸に向かった。ジギタリスとの約束を果たそうと思ったのだ。玄関の呼び鈴を鳴らしたのだが、マキムラ家の人々はショルグ大会の応援に出かけているのか皆留守らしい。アーガスも当然いないと思い、帰ろうとしたときのことだ。
「ロッテ、待ってくれ」
と声をかけてきたアーガスの舌の回らないその話し方から、したたかに酔っているということは明らかだった。
アーガスはバナロッテをほの暗い居間に招き入れた。二人は並んでソファに腰掛ける。
「最近、僕を避けてるだろう?」
唐突にそう言ってきたので、バナロッテはびくりとした。
「やだなぁ、気のせいだってば」
笑って誤魔化そうとするが、アーガスの半ばとろんとしたまなざしはバナロッテをとらえて離さない。バナロッテは怖くなり、話題をそらそうとした。
「叔父さんがお酒飲むなんて珍しいよね」
「叔父さんって呼ぶな!」
アーガスは怒鳴ってから、後悔したように両手で顔を覆い、うなだれる。
「ごめん…お義父さんとケンカしたんだ」
「そうだったの。悪いところに来ちゃったね」
「こっちこそ、醜態さらしてごめん」
しばらく二人の間に気まずい沈黙が流れた。バナロッテは当初の目的を忘れたわけではなかったが、今切り出すことではないと思い、どうして良いか迷っていた。幼い頃のバナロッテなら迷わずアーガスの手を握って励ましたことだろう。だが、母の戒めがバナロッテを躊躇させた。
「あ、あたし、帰るね。また来るから」
バナロッテは逃げるように立ち上がろうとしたが、アーガスが腕をぎゅっとつかんだ。
「行かないでくれ」
その声と指には力がこもっていて、バナロッテは魔法をかけられたように硬直する。アーガスが今バナロッテを必要としているのが痛いほどよく分かった。
(あたし、アーガスの力になりたい。だけど怖いよ…ママ…)
バナロッテはこんなときにためらっている自分がいやだった。しかし、アーガスは半分しか血がつながっていなくても実の叔父なのだという事実が、バナロッテを臆病にする。
(あたしがジギタリスさんだったら、アーガスを力一杯抱きしめてあげられるのに)
そう思ってからバナロッテは、自分の中の秘められていた想いに初めて気が付き、絶望的な気持ちに襲われた。
(あたし…アーガスのことが好き…なんだ…)
だが、それを認めてしまったらすべてがめちゃめちゃになってしまう。これではナァム同士の恋よりもたちが悪いが悪いではないか。
そのとき、バナロッテはなぜか笑い出したい心境に駆られた。気が付いた瞬間に永遠にかなわぬ恋だと判明してしまうなんて、悲劇を通り越して滑稽なだけだ。
(分かったよ…どうせかなわぬ恋なら、今だけかりそめの恋人になるのもいいよね)
バナロッテはアーガスの方を向いて座り直した。
「あたしの胸貸してあげようか」
アーガスは、はっとしたようにバナロッテを見つめた。
「ロッテ?」
「思い切り泣いてもいいよ。笑ったりしないから。もちろんジギタリスさんには秘密にしてあげる」
アーガスの黒い瞳にはためらいの色が浮かんでいた。バナロッテはアーガスが後から罪の意識を抱かないように、ふざけたようにこう付け足す。
「だって、アーガスはあたしの一の子分だし」
「…うん…」
「ねっ」
バナロッテはそう言いながら、アーガスを両腕でそっと抱きしめる。二人は昔と同じように頬を寄せ合った。
「ごめん…ロッテ…」
しばらくしてからアーガスの熱い涙がぽたぽたとバナロッテの膝の上にこぼれ落ちる。バナロッテは黙ってアーガスの頭を自分の胸に引き寄せた。
永遠とも思えるような時が流れた。玄関の方から楽しげなマキムラ家の人々の声が聞こえ、二人は我に返った。
「もう、大丈夫?」
バナロッテが言うと、アーガスは夢から覚めたような表情でぼんやりとうなずいた。その満ち足りたような顔が印象的だった。
バナロッテがアーガスが遠い異国の地に旅立ったという知らせを母から聞いたのは、それから三日後のことだった。養父とケンカしていたのはその件についてだったらしい。
「あの子、ずっと悩んでたみたい。相談してくれれば良かったのに。水くさいわ」
母は少し涙ぐんでいた。
「おとといシャイアルさんところに移住したいって言ったんですって。たまたま昨日移住船が出発するからってそれに乗っていってしまったのよ。きょうだい達に挨拶もなしにひどいわよね」
バナロッテは愕然として言葉を失ってしまった。あの晩の出来事がアーガスの背中を一押ししたのは間違いない。
(あたしのせい?あたしのせいでアーガスは行ってしまった?あたしにすら何も言ってくれなかったの?)
バナロッテは立っているのがやっとだった。母の前では気丈なフリを装って、なんとか自室まで歩いていくと、ベッドに身を投げ出し、まくらに顔を埋めると思い切り号泣したのだった。
翌日、バナロッテは大通り北でジギタリスとばったり出くわした。バナロッテが申し訳なさそうに目をそらすと、ジギタリスの方からバナロッテに話しかけてきた。
「あたし、振られちゃったね」
全然ショックを受けた様子はない。
「せめてジギタリスさんには相談していたんですよね?」
バナロッテがおそるおそる尋ねると、ジギタリスは威勢良く首を振った。
「全然! でも、これでさっぱりしたよ。あやふやな態度をとり続けていたのはあいつなりの誠意だったんだなってよく分かったから。これで一から出直しだね。また、いい男探さなくちゃ」
ジギタリスはそう言い残し、その場を立ち去っていった。
バナロッテはジギタリスの後ろ姿をじっと見送りながら、ずっと考え事をしていたが、ついに決心をしてオブライアンの家に向かった。中途半端なつき合いに決着を付けるために。
彼氏のいなくなったバナロッテの元には大勢の独身男性達が押し掛けてくる。しかし誰もアーガスを忘れさせてくれるような魅力的な男性はいなかった。
(あたし、このまま一生独身かも。アーガスのバカ!)
バナロッテは断りもなく目の前から消えてしまったアーガスを恨んだ。逆恨みであることは重々承知していたが、そうでもしなければ置いていかれた者としてはやり切れなかったのである。
アーガスが旅立ってから1年ほどたった頃だろうか。ある日バナロッテの元に差出人不明の異国からの手紙が届いた。いぶかしく思いながら開封した手紙にはたった一言だけ見覚えのある文字でこう書いてあった。
「待ってるから」
バナロッテは便せんをとり落としそうになった。早鐘のようにばくばくいっている心臓を必死になだめると、何度もその文字をたどった。目の錯覚ではない。バナロッテはその場にへたり込み、便せんをぎゅっと握りしめた。
(アーガスはあたしを置いて逃げたんじゃない! 決断するのは今度はあたしなのね…)
それからしばらくしてから、タラの港でひとり佇むバナロッテがいた。遙か水平線の彼方を見つめる海の青を写し取ったような瞳は、固い決意にきらめいていたのだった。