Pavane pour une Infante Defunte


 一夜明けて、暁方に雨は止んだ。
 
 冴え渡った蒼空から降る陽は明るく降り注ぎ、テレーゼの俯いた白い頬に黒いレースの影模様を浮かび上がらせた。
 その陰の中に、ふと煌めきを見せたものがある。
 暗い、縁のくっきりとした──その陽の光が透徹してあるだけに、一層──陰の中で生きている証明のように輝いたのはテレーゼの榛色の瞳だった。その輝きに反して、彼女の表情には動きが無く、揺らぎも見えない。
 不意に、彼女は首を捩って柩を見た。
 白い花の溢れそうに投げ入れた中に横たわった亡き人の、陽光を受けて白く明るんだ貌はそれを眺める彼女に良く似ていた。

 ■

 テレーゼの許へ、シャルロッテ・ミラーの余命僅かな事を知らせる電話が入ったのは僅か1週間程前の事である。

「ミズ・ルクセンブルク?」
「──イエス……、」

 思い中る節の無い、受話器越しのアメリカ英語に戸惑いながら首を捻っていたテレーゼに、相手の中年らしい男性は驚くべきファミリー・ネームを名告った。

「──私はミラーと云います、……」

 ──奇妙な運命の巡り合わせと云うか、……妙なものだ。
 数十年も前に生き別れた母の危篤を告げる電話が、父親違いの弟から入った。
 
 テレーゼ・ルクセンブルクは本来、テレーゼ・クレイといった。
 数年前にドイツで施行されたパートナー法により、恋人のエリザベート・ルクセンブルクと結ばれたので旧姓と云っても良いが、彼女がルクセンブルクの籍に入った二十年程前には未だそんな革新的な法律は無かった。それで、当時は一旦、エリザベートの父ヴィルヘルムの養子として表面上の手続きをする必要があった。彼の寛容な処置で、テレーゼはそうしてルクセンブルク家に入った訳だが、クレイ姓と同時に彼女は血縁上の家族を失った。
 テレーゼの実父、ゲルハルトは娘がレスビアンであることを認めなかったのである。別れないなら勘当すると云い渡したのは父だったが、そうであれば、と恋人を選んで家族と、祖国の家を捨てたのは一見温和しそうなテレーゼの内にある情熱が取らせた選択だった。
 その時の家族は父と、そして兄と継母の3人だった。父は一度離婚しており、その時の子供が兄リヒャルトとテレーゼだ。その母が、シャルロッテというピアニストである。
 辛うじて、彼女が著名な女流ピアニストであるという理由だけで母の消息を表面的な一部分ながら知り得たテレーゼには、全く予想の付かなかった事では無い。いずれはそんな日も来るかも知れない、と心のどこかでは予感していたのかも知れなかった。
 然し、彼の弟──エリオット・ミラー、彼とテレーゼは、当然ながら一面識も無い。電話口ではまともな挨拶も交わせた物ではないから、未だ見ぬ肉親だ。──血の系がった肉親、という存在は二十代の時に父と、そして兄からも離別したテレーゼにとって、既に無いものとなって久しい。
 若い、抑えようのない情熱のままに同性の恋人を選び、父から勘当されて自ら血縁を捨てた事をテレーゼは今の今まで後悔した事は一度も無い。父娘の縁を切られてからも、彼女の周囲には常に──時には血の繋がり以上の──愛情が溢れていた。テレーゼを養子とする事でルクセンブルク家に受け入れたヴィルヘルム、その妻のレベッカ、義妹は声楽家でアレキサンドラ、双子の兄妹ケーナズにウィン、そして双子の実母、エリザベート……。──そう、テレーゼの運命の恋人は、今なお彼女の側に居た。若さ故の危険な程の情熱は、然し一時の情熱には終わらなかったのである。
 ルクセンブルク家はドイツ貴族の末裔、そしてテレーゼは世界的なピアニスト。嫌でも世間の注目を集めてしまう彼女達の同性愛が誹謗中傷や、時には心無い軽蔑の対象とならない訳には行かなかったが、エリザベートは風信に動揺するような性質では無かったし、堂々たるゲルマン美女の恋人と並べば温和しく物静かなテレーゼでさえ、他者の干渉ごときで自らの信念が選んだ生き方への自信が揺らぎはしなかった。
 3年前、ドイツでは同性同士の結婚を認めるパートナー法が施行された。それといっても形ばかり、法的に同性のパートナーを認めるというだけであって、異性間結婚と全く差別が無い訳ではない。が、視野を世界に向けてみれば未だドイツは革新的な方だと云って良いだろう。テレーゼとエリザベートも即座に申請し、公的にパートナーとして認められた。元々、養子縁組の名目で事実上──彼女達の真実では──結婚して二十年ばかりになるものだから、躊躇いは無く手続きは迅速に行われた。
 不安は無い。既に、お互いを永遠のパートナーとして愛し続けるだけの自信を、この長い年月の間でテレーゼとエリザベートは養って来たのだ。
 更には彼女達の子供、双子のケーナズにウィンも成人してそれぞれ大学へ落ち着いた。「一生勉強」をモットーに飛び級を繰り返しながら現在、ニューヨークの大学に経営学を学ぶウィンはともかくとして兄のケーナズは、一旦はハイデルベルク大学の医学部に入学したものの「医者にはならない」と突如薬学部への編入をしたりとして、大分周囲の大人を唖然とさせたものだ(但し、エリザベートだけは何を知らされても落ち着いたものだった)。その彼も薬剤師の資格は取って卒業する意志は固めたようで、──つまり、子供達の将来も大分見えて来た訳だ。
 彼女達の生活は既に安定した状態になりつつある。──そこへ、不意打ちのような、顔も見ぬ肉親から実母の危篤の知らせだ。
 これは、意地悪な運命が彼女を翻弄していると云うべきか? 
 或いは違うのかも知れない。──もしも、今尚テレーゼが激流のような運命に翻弄される最中に在れば、実母の大事だと云って会おうとは決心し兼ねた所かも知れなかった。
 ──何にせよ、即決できる問題では無かった。

『──2、3日中……いえ、明日にはお返事差し上げるわ。詳細も、その時に……、……構わないかしら?』

 ■

 その数日後には、テレーゼはマンハッタンの空港で人込みの中に待ち合わせ人の姿を見い出そうと、小さな身体を爪先立ちできょろきょろと視線を周囲に巡らせていた。
 エリオットの自宅はニューヨーク近郊であると云う。ここで落ち合い、彼の家へ──母へ会いに、導かれる段取りとなっていた。無論、電話口で取り決めた他愛の無い手筈だったが。
 ニューヨークの人込みは、流れが急だ。
 大柄で、歩幅が広い所為だけでは無いだろう。少なくとも、厳しい自然の中に時折り、息を呑む程、感覚の全てをその中に委ねたい衝動に胸を焦がすようなドイツとは時間の流れが違った。空気も乾いていた。ただ湿気の少ないというだけでは無くて──無機質なのだ。
 爪先立ちに疲れて一旦踵を落とし、ふっと息を吐いた所で不意に昔の事を思い出した。
 ウィーンへ留学していた学生の頃の事だ。音楽の都には、世界中の総ゆる都市から音楽家や彼女のようなその卵が集まっていた。音楽を志す意志は同じでも、その有り様というか、歌心は面白い程にその人間が生まれ育った環境を写して十人十色であった。例えば、石造りの建物が多く空気の乾いたヨーロッパ人は、如何に余韻を響かせるか、といった繊細な歌い方をした。アジアの温暖な気候に慣れた上、母国語の発音が単調な日本や韓国の学生はカンタービレも淡泊で、反面勤勉な性質が染み付いているのか綿密な技巧を得意としていた。同じアジアでも子音をはっきりと発音する中国人はその強弱が歌にも反映されていた。
 そしてここ、アメリカの音楽は……、……よく、「ジュリアード式」と良い意味でも反感の意でも総称されるように、広いホールの奥にまで音が届く大胆な音量と率直に感性に訴える抑揚が良しとされていたようだ。……こうして、ニューヨークの人の流れを見ていると、彼等の音楽が思い起こされた。
 因みにテレーゼは矢張り北欧系らしいカンタービレが根底にあったようだ。厳しい自然に抑圧された中にある、激情のような感情の迸り。昔は良く、「主張が無い」と云われた。が、一度情熱を歌へ投影する事を覚えてからは、──良く、プロになってから評されたように「繊細な中に迸る情熱──それは、あたかも静かな月夜に雫を煌かせる噴水のようだ」──といった具合だ。
 彼女──も、またテレーゼと良く似た感性の持ち主だったのだろう。極僅かに見い出す事の出来たピアニスト、シャルロッテ・ミラーへの評価は、苦笑してしまう程にテレーゼ自身へ向けられる表現と良く似ていた。
 テレーゼ自身はどう思う? ──似ているとか、似ていないとか……、そうした基準で母と自分の演奏を比較しようと思った事は無いし、それは分からなかった。……が──。

「テレーゼ・ルクセンブルク!」
 
 ──ぼんやりしていたテレーゼは、ざわめきの中にもはっきりと聞き分ける事の出来た自分の名前を呼ぶ声にはっと顔を上げた。慌ててきょろきょろと周囲を見回し、大抵がテレーゼの頭の上にある通行人の肩越しに大きく手を振っている男性の姿を捉える事が出来た。
「ヒア!」
 負けじと、手を振り返して声を張り上げる。──少し喉が痛くなった。口論している訳でも無いのに、悲鳴のような声を絞り出さなければ声の届かない環境というものに慣れていない。
「ソーリー、」
 丁寧に謝罪しつつも躊躇せず人込みを掻き分けながら、彼が前進して来た。テレーゼも歩み寄ろうとするのだが、何分彼女の小柄な身体では勢いに負ける。身動きが取れずに立ち往生していた彼女の腕を、彼の手が捉えた。そのまま脇へ引き寄せようとして、──ああ、と気付いたようにもう一方の手でテレーゼが側らに置いたままだった旅行鞄のハンドルをも掴んで軽々と持ち上げた。
 ようやく開けた通路の脇へ逃れ出てから、男性は改めてテレーゼへ向き直った。
「──ごめんなさい、つい、気圧されてしまって……」
 胸に手を当てて、ほっと息を入れながらテレーゼはややぎこちない微笑を浮かべて彼を見上げた。途端、彼の表情は──ぱっ──と花の咲いたような、ついそこに少年の笑顔を見た錯覚を抱きそうな程に明るく破顔した。
「始めまして、エリオット・ミラーです。あなたが、テレーゼ・ルクセンブルク、……会えて嬉しい、」
「……よろしく、……エリオットさん」
 テレーゼは微笑みと共に、差し出された手に握手を返した。──少し、ぎこちなさが残ったが、異父姉弟の対面は──決して、拙くは無かった。

 ■

「詳しい事は、移動しながらで構わないかな」
 オーケー、とテレーゼは頷き、温和しく彼に続いた。
「──私の事を話せば、まあ、サラリーマンです、極平凡な。コンピュータ系の会社に務めています。今から向かうニューヨーク近郊が、我が家。妻は小学校の教師でルーシー、……ああ、後で実際に紹介します、……父は数年前に亡くなって……、──ああ、それとね、育ち盛りの元気でちょっと煩いチビ達が2人、」
 娘が居るらしかった。戯けた云いように、テレーゼも当初の緊張を大分解してくす、と笑った。然し、その後に間が訪れてしまうと少し、表情を強張らせて切り出し難い事を訊ねない訳には行かなかった。
「──母は、どんな状態なの……、」
「……癌、」
 既に末期なのだとエリオットは説明した。半年前に診断が下った後は入院治療を行っていたが、最早治癒は不可能であると分かった。エリオットは独りっ子であった為、シャルロッテには他に肉親は無かった。息子夫婦に気兼ねもあって本人が主張した訳では無いようだが、エリオットは誠心誠意母の意図を汲もうと苦心し、結果、短い余生をホスピスでのターミナルケアに費やすよりは自らの自宅で療養させた方がどんなにか良いだろうと結論した。そして、今彼女はモルヒネ投与を受けながらエリオットの自宅に居る。──そういった話を、エリオットはテレーゼと目を合わせないまま淡々と語った。
「……有難う、」
「え?」
「信じていたけど、──信じたかったけど、果して来てくれるだろうかと不安だったから」
 エリオットは、医師から余命1ヶ月と告げられた時に決心した。母が再婚でスイスには彼女の前夫と異父兄姉が残されて来た事を彼は知っていた。
 余命僅かに1ヶ月であるから、せめて一目だけでも会いに来てはくれないだろうか、──とは筋が通っているようでいて、実際に再婚相手の息子であるエリオットから切り出すには、彼は最大の勇気を振り絞る必要があった。
「──兄……リヒャルトさんにも、一目だけでも、と頼んだんですが、」
 エリオットはそこで口唇を噤んだが、肩を竦めた彼の動作から、──それと、いい加減中年を迎えていようと、二十年間会わずじまいであろうと、兄が首を縦には振らなかっただろう事はテレーゼには容易に理解出来た。テレーゼはそれに就いては何も云わず、ただ軽く頷いただけだった。
「でも、テレーゼさんが──、や、姉さんが来てくれて本当に嬉しかったよ。めげないで、ドイツにも連絡して良かった」
 眉を曇らせていたエリオットは、次ぎの瞬間にはぱっと明るい笑顔を浮かべてテレーゼを真直ぐ見詰めた。そこでテレーゼも苦笑せざるを得なかった。実年齢より十歳は若く見られ勝ちなテレーゼから見て、子供のように屈託の無さだったのだから相当な無邪気だ。

──私だって、最初は躊躇ったのだもの……。

 ■

 古いレコードには、気紛れに──パチ、──と水泡の爆ぜるような音が混じる。
 「亡き王女の為のパヴァーヌ」。元々は管弦楽曲であったものだが、後に作曲者自身の手でピアノ独奏用に編曲されたものだ。
 Dolce ma
sonoro、優しく、柔らかに、──響かせて。音楽の世界の中でこのパヴァーヌを奉げられた歳若い乙女の葬送には、温度の低い、それでいて悲しい程麗らかな光が満ちているように思える。明るく、清潔な硬質さを備えた輝かしさ。ピアノの音はパヴァーヌに良く似合うと思う。
 テレーゼはこのパヴァーヌを奏するピアノが大好きだった。繊細で丁寧に抑えられたダンパーの使い方、低く抑えたタッチの上に、内声を歌う旋律は驚く程鮮やかに提示されていた。
「……、」
 徐ら、テレーゼは敏捷な少女のような動作で凭れていた身体を起こし、歩み寄ってプレイヤーを止め、中からレコードを取り出した。脇に置いていたジャケットを取り上げ、丁寧な手つきでそれを仕舞う。
 そのレコードを両手で持って視線の上に掲げた。
 そこに写し取られた一人の女性の姿を、彼女は暫し、云い表し様の無い静かな情熱を込めた目で眺めていた。──モーリス・ラヴェルのピアノ小品集。ピアニストの彼女は、シャルロッテ・ミラー……。
 このレコードは長年、テレーゼの大切な宝物となっていた。
 ウィーンの音楽院に居た頃、冷やかしに入ったレコード店で目的の音源を探す内、偶然目に留まった物である。当初の目的も忘れて急いで精算を済ませ、飛ぶように下宿先へ帰るとその日は一日中飽かずに聴いていた。
 音楽院を卒業してスイスへ帰る事になった時、持っていたレコードの中でこの大切な一枚だけはドイツの恋人──つまり、エリザベートだが──の許へ送ってどうか預かっていて欲しいと頼んだ。当時は、未だ父の目があったのである。幼いテレーゼを残して母が家を出てしまってから、彼女の持ち物や面影を伝える物を何一つ残らず処分してしまった父がそのレコードを一目見ようものなら没収されて失われる事は分かり切っていた。無論彼の目の届く場所に堂々と飾り立てる気など無かったが、隠しても万一の事態を考えると、そうするのが一番良いだろうと思えた。──そして、それはどうやら正解だったようだ。レコードが手許に無い間は、それと知れないようにラベルを貼らないカセットテープに録音したものをこっそりと聴いていた。父に見つかった時には、このテレーゼの宝物は問答無用に取り上げられ、二度と母の消息を追う事も禁ぜられただろう。
「……母さん、」
 ──ぽつり。……そうその呟きは、どこか先程のレコードがたてたノイズに似ていた。一瞬の内に、爆ぜて、消えてしまう。
「……!」
 突如、テレーゼは現実に戻ったように行動を起こした。レコードをまた丁寧に手近なピアノの上へ置くと、ウォークインクロゼットを開けてスーツケースを取り出す。
 各地を転々とするピアニストである彼女は、旅装を取急ぎ整える事も手慣れていた。間も無く短期間の滞在用の荷造りを終えたテレーゼは、くるり、と踵を翻してピアノの前へ、レコードを取りに戻った。最期に、上手く他に詰めたワードローブが毀れ易いレコードへの衝撃を護ってくれるような形でそれを収め、ケースを閉じる。──その時のテレーゼの瞳は、一つの決意を固めた人間にしか無い輝きを留めていた。

 シャルロッテ・ミラーのピアノは、無論手放しで称讃に値する物でもあり、テレーゼの趣味には好ましい演奏だった。
 ──が、彼女はそこに一つの感情を感じ取ったのだ。……何かしら? このパヴァーヌに流れている一つの歌、感情は……。
 演奏者の持ち味、歌心、と云ってしまえばそれで片付く問題だったのだが、テレーゼは確かめたかった。本人から、その感情を引き出してみたい。母と、対面する事に拠って……。

──……もしかしたら、私だって対面から逃げようとしたかもしれない。

 決断させた事のきっかけはと問えば、シャルロッテ・ミラーのパヴァーヌを収めたレコードであった。

 ■

「──母のロマンスを知っている?」
「え?」
 はっとして顔を上げると、エリオットがにこにこと笑いながら頷いた。
「若きシャルロッテのロマンス」
 何の事、とテレーゼはぎこちなく微笑いながら訊き返した。エリオットの笑顔の裏に、何とか冗談めかして空気を和らげようとする気遣いは見えるのだが、それに乗って大笑い出来る精神状態ではない。
「──いや、真面目な話、母が父と結婚した時の事さ、」
 エリオットの語る所によれば、こんな話だった。
 シャルロッテ・クラインは元々将来の有望な女流ピアニストだったのだが、テレーゼの実父、同じピアニスト同士ゲルハルト・クレイとの結婚で音楽活動は一旦休止し、家庭に入る。第一子リヒャルトが生まれ、一見、倖せな家庭生活は申し分ないかのように見えた。が、その頃からシャルロッテ・クレイは本来ならば満たされていて良い筈の胸に暗い影のような空洞を抱える事になった。
 シャルロッテは、妻となり母となったその時でもピアニストだという自覚があった。いずれ、身体が持ち直した頃には音楽の道に復帰しようとしていたのだが、ゲルハルトは家庭の事となると殊に保守的だった。
「家庭の女が表舞台に出る必要などない、ピアノが弾きたくば家の中で趣味程度に弾くが良い」という主張であり、反論は一言も許されなかった。その癖、物心付き始めたリヒャルトにピアノを弾かせる事に関しては完全に自分の領域としており、シャルロッテは簡単な助言すら許されなかった。極め付けとして、「彼女のピアノをあんまり聴くんじゃない、ぼそぼそした女々しい演奏を覚えてしまう」とまで云う。
 シャルロッテにも音楽家としてまだまだ第一線で活躍したいという当然の野心があった。それを、温和しい性格も手伝って抑圧された彼女の夫への愛情は急激に冷えて行った。
 その頃、クレイ家の隣家には一人の外国人青年が下宿していた。アメリカからの留学生で、──それが、ローランド・ミラー、エリオットの父親である。挨拶を交わし合う内、二人は次第に魅かれ合った。
 やがて、クレイ家に2人目の子供が誕生した。長女テレーゼである。「女か、」──既に長男が居るのでそれ以上は文句も云わなかったようだが、ゲルハルトはあまり喜ばなかったらしい。
 産後の身体を自宅で休めていたある日の午後、シャルロッテは極自然な欲求に従ってピアノに向かった。ゲルハルトは留守だった。
 夫の留守に気兼ねなくピアノが弾ける、という喜びよりも寧ろ、まともな練習を久しく欠かした事から自由に動かない自らの十指がもどかしかった。このままでは、確実に腕は落ちて行って独身の頃のような演奏は二度と出来なくなるだろう。希望はあるのに、そうして周囲の環境に抑え込まれて生涯を掛けてきたものが失われて行く感覚への絶望は、他人からは容易に想像が付かない──同じピアニスト同士であっても。
 溜息を吐いて演奏を止め、蓋を閉じたピアノの上に頬杖を付いていたシャルロッテは誰かの笑い声を聞いたように覚えて、窓を振り返って呆然と目を見開いた。隣家の留学生、ローランドの笑顔がそこにあったのである。
『もうやめちゃうんですか?』
 すみません、こっちまで音が洩れてきて、それがあまりにきれいだったからつい聴き入ってしまった、と青年は笑ったまま弁解した。
『全く思うように弾けないんだわ、──最近、殆ど弾いていなくて』
『身体を労る方が大事でしょう、今からまた取り戻して行けば良いじゃないですか』
『身体の問題だけじゃないの、弾きたくても弾けないのよ、』
 つい不平がましい事を独白のように洩してしまうと、ローランドは不思議そうな顔をした。
『何故?』
 弾きたければ弾けばいいじゃないか、とさもそれが自然なような表情だ。まさか、彼には表舞台に復帰したいと願う女流ピアニストに夫の立場から反対意見を押し付ける事など思いもよらないらしかった。
『……ごめんなさい、何でもないわ』
 家庭内の亀裂を他人に零すなんて、とシャルロッテは自戒を込めて軽く首を振りながら、窓を閉めようとした。
『あれ、閉めてしまうんですか』
『だって恥ずかしいもの、それに今日はもう弾かないわ』
『……じゃあ、また満足の行く演奏が出来るようになったら、遠慮なく窓を開け放して聴かせて下さいよ』
 微笑を作って返しながら、シャルロッテは──そんな日なんて来はしないわ、と内心で諦めていた。
『ねえ、』
 2人の間が窓ガラスに遮断される間際、ローランドはやや先程までとは調子を異にした声で呼び掛けた。
『何?』
『……奥さんはピアノが弾きたいんでしょう、だったら、弾いたら良いと思う。……自分の本当にやりたい事に、誰が反対したからって遠慮する方法なんて無いよ』
『さようなら』
 あまりに、全てを見透かしたような、その上で自分の存在を認めてくれるような言葉──それはシャルロッテがここ数年、ついぞ受けた事が無かった──を告げられた事で、ぎくりとすると同時にぐずぐずしていればこのアメリカ人青年に縋り付いてしまいそうで、シャルロッテは窓辺から身を引こうとした。──咄嗟に、ローランドの腕が彼女の手を掴んだ。
『ちょっと、』
『……僕、来月にはアメリカに帰ります』
 ──そして、ローランド・ミラーが留学期間を終えてアメリカへ帰る時には、側らに一人の女性の姿があった。
 クレイ姓と共に全てを捨てたシャルロッテである。唯一の心残りは2人の子供だった。
 
 ──自らの知り得なかった母の、離婚、再婚までの経緯を知ったテレーゼは目を一杯に見開いてエリオットを凝視していた。最初は冗談めかしていたエリオットの表情も、話し進む内に真摯になっていた。
「それを、あなたに話したの?」
「大体の事は聞いていたけど、詳しい話を聞いたのは父が亡くなった時。一度だけ、譫言みたいに聞かされたよ」
「……そう、」
 再び黙り込もうとしたテレーゼの肩を、エリオットが強い力で掴んだ。
「え?」
「姉さん、何故急にこんな話をしたか分かりますか」
「……何故って……、」
 ──今一つ、思考がクリアでない。口籠ったテレーゼに、エリオットは居竦む程強い目を真直ぐ向けながら云った。
「母に会う前に、どうしても姉さんに知って置いて欲しかったんだ」
「……ええ、話してくれてありがとう」
「本当に分かってる!?」
 手を放してから、エリオットはアメリカ人らしく両手を軽く拡げて天を仰ぎ、低く呟いた。

「誰も、好き好んで自分の子供を捨てようなんて思いはしないし、何年経ったって忘れる事なんて出来ない」

 ■

 エリオットの自宅に着くと、先ず最初に体面したのがエリオットの妻であるルーシーだった。夫から紹介を受けると、予めテレーゼの来訪を聞き知っていたらしい彼女は大きな笑顔を浮かべて両手を広げた。
「I'm glad you could come!」
「Thank you, nice to meet you.」
「アンとジェニーは?」
 エリオットが彼女に尋ねると、遊びに行っている、直に帰るだろうという返事がルーシーの口から告げられた。エリオットは軽く頷き、「じゃあ、チビ達とは後で」とテレーゼを促した。エリオットもテレーゼも微笑していたが、口許にはこれから数十年振りに母と再会する、という近い未来への緊張からどうしても隠せない強張りが見えた。
「こっちだ、」
 エリオットがその部屋の扉を押し開けてテレーゼを招き入れる。──最初に、テレーゼの目に映ったのは明るい窓際に設置された小さなアップライトピアノだった。
「母さん、──姉さんだよ」
「……、」
 室内に足を踏み入れてようやく、病人が身体を横えた寝台が認められた。エリオットに続いて進み出たテレーゼは戸惑いながら寝台を覗き込んで、あまりの衝撃にあっと声を上げそうになった。その声は意図せずとも喉から漏れる息の音に取って代わられて上がらなかったが、その代わり、手にしていたハンドバッグがことりと床に落ちた。
「……、」
 テレーゼは口許を覆ったまま、バッグの落ちた事にも気付かず沈黙していた。──ああなんて事でしょう……、
 ──再会に際して、一体どんな顔をしたら良いのか、或いはどんな感情が沸き上がる事だろう、と想像しては夜の機内でも眠れなかった。結局、なるようになるのだ、自然の成り行きに任せよう、そして、もし母が笑顔を見せてくれれば嬉しい、自分も晴れやかに再会を喜べるだろうと淡い期待を抱いていたのだが、それは無残な形で裏切られた。
 生き別れた母への憧憬や、数十年間の空白の時間への様々な想いを一瞬にして打ち砕いてしまったものはあまりにも弱々しく衰えた母の姿だった。症状が末期まで進行した癌細胞は、もとはテレーゼに生き写しだった小柄なスイス人女性の全身から、全ての面影を奪ってしまった。今、テレーゼの前に横たわった母の姿は、幼い頃の記憶を手繰り寄せて築いてみた想像の母の像とも、或いは彼女が宝物にして来た小品集のレコードのジャケットにあった彼女の顔とも、全く違う。一人の、ただ無残に身体を蝕まれて衰弱した、痛々しい老女だった。
「……テレーゼ……?」
「……、」
 老女の口唇から、余程注意していなければ聞き漏らしてしまいそうな程弱々しい声が発せられた。然し、その小さな声はテレーゼの意識を引くには充分だった。──私の名前を呼んだ、母が、私の名前を……。
 俄に、生き生きとした感動がそれまで呆然としていたテレーゼの胸の内に沸き上がった。──そうよ、私、テレーゼよ!
「母さん?」
「テレー……ゼ、」
 母が、シャルロッテが身じろぎした。それが、その痩せ衰えた指先を自分へ差し伸べようとしているのだと気付いたテレーゼは一も二も無く寝台へ駆け寄って身を屈め、狂おしい程の親愛の情を優しく、激しいキスに変えて母の額へ浴びせかけた。
「……、」
「……何?」
「……許して、……テレーゼ」
「……、」
 テレーゼの身体から、全ての蟠りが抜けたようになって彼女はややよろめいた。
「何を……? ……恨んでいないわ」
「許して頂戴、テレーゼ、あなた達を捨てた私を……、」
「恨んでなんていないのよ! ……ただ、寂しかっただけ、良いのよ、今はもう良いの、だってこうしてまた会えたじゃないの、何が悪い事? もう何も心配する事なんて無いじゃないの……、」
「……、」
 シャルロッテは目を伏せて僅かに首を振った。テレーゼは更にキスを浴びせ、病身に堪えないようそっと彼女の肩から首を抱き締めた。
 その情景を見たエリオットが僅かに俯いて目頭を押さえ、ルーシーは黙ったままテレーゼの取り落としたままのハンドバッグを拾い上げた。彼女は屈めた身体を起こした時、窓の外に気付いて視線をそちらへやった。──窓ガラスに張り付くように、小さな少女が2人、並んで顔を覗かせていたのだ。
 ルーシーに遅れてそれに気付いたテレーゼに、エリオットが苦笑いして見せた。その表情から、彼女たちが先にエリオットの述べた「チビ達」であるとテレーゼには即座に理解出来た。
「チビ達も姉さんの大ファンなんだよ、」
 云って、エリオットはピアノに程近い、オーディオの類いを納めた棚を目で示した。クラシックのピアノ作品のみに留まらない雑多なCDのコレクションとは別に、別に設けられた上の方の一段に特に丁寧に整理されたCDが背のラベルを見せていた。テレーゼ・ルクセンブルク、そしてリヒャルト・クレイ──彼女の子供達の作品ばかりだ。
 胸の詰るような感覚を覚えて、テレーゼがその一角を眺めている内にルーシーが手振りで少女達へ入るよう、指示した。
「母の一番の宝物。見て御覧、これに関してはちょっとしたコレクターだよ。国内盤だけじゃなくて輸入盤でも、見掛けたら大事そうに買って来ていた。──これなんか、日本で発売されたものだよ」
 中味は同じなのにね、とエリオットは肩を竦めながら、──或いは、そうして熱心に生き別れた子供達の成長を見守って来た母を愛しく思い返していたのかも知れなかった──ちらりとシャルロッテの寝顔へ落とした視線をテレーゼに向けた。
「──ああ、盤によって収録されていなかったりする曲があるのよ。日本盤には良くボーナストラックが入るの」
「へえ、」
「私も一度、まさか公に出ないだろうと思って居たのに、ソナタのレコーディングの合間に遊びで弾いてみた小品が日本盤に収録されていてびっくりした事があるのよ」
「すると、母さんは意外な姉さんの一面を偶然にも見ることが出来た訳だ。ラッキーじゃないか」
「厭だわ、恥ずかしい」
「──こんにちは!!」
 勢い良く扉が開き、先程窓に張り付いていた2人の少女が駆け込んで来た。こら、静かになさい、とルーシーに窘められてぺろりと舌を出した顔を見合わせてから、彼女達は元気良く、ちょっとおませな仕草でスカートの端を摘んでテレーゼに挨拶した。
「こんにちは」
 大分、精神的な余裕を得たテレーゼは小さなレディ達に微笑んで見せた。
「あなた、テレーゼ・ルクセンブルクでしょう?」
「そうよ。初めまして」
「初めまして! アン・ミラー、妹のジェニーよ」
「テレーゼ、CDで見た通りね!」
 小さなジェニーの云う無邪気な簡単に、テレーゼに自然と笑顔が溢れた。
「当たり前じゃない、本人だもの、」
「ピアニストのテレーゼ・ルクセンブルクよ!」
「静かに! お義母さんが寝ていらっしゃるでしょう!?」
 いけない、と少女達は口許を押さえ、一杯に見開いた目に感情を素直に表して顔を見合わせた。
「……、」
「何、母さん?」
 病人が何事かを呟いたので、エリオットが急いで耳を彼女の口許に寄せた。殆ど溜息のような低い声だったが、発せられる言葉は驚く程鮮明で、生き生きとした抑揚を持っていた。
「……ピアノを、……テレーゼに……、」
 オーケー、弾かれたようにエリオットはピアノ──この部屋へ来て、テレーゼが最初に目に留めたアップライトピアノに駆け寄って蓋を明けようとした。テレーゼにピアノを弾いて欲しい、そうシャルロッテは云ったのだ。弱々しい声の内に、テレーゼはhopefully、という懇願の言葉を聞き取る事が出来た。
「お願いします、姉さん」
 永らく弾かれる事の無かったらしいピアノの様子はぱっと見にも良く分かった。それが、如何に母の病状の進行したかを見せ付けているようで、痛々しい想いを強くしたテレーゼはエリオットに示された鍵盤を前にちょっと躊躇った。
「お願い、」
 くるり、とテレーゼは母を振り返って、そこで訴えるように潤んだ、病人とは思われない程澄んだ榛色を示す瞳と視線を合わせた。
「生きている内に、一度だけでも良い、聴きたいの……テレーゼ、」
「……、」
 テレーゼは労るように目を細めて微笑った。そこで迷う事無くピアノの前に進むと、ひらりとスカートの端を払って椅子に掛け、爪先をペダルに乗せる為に軽く前へ出しながらふわりと両手を鍵盤に翳す。
 何を弾こうかという迷いは、頭に閃いた瞬間に結果が出た。

──Clair de Lune.

 音楽は、聴く側にも精神力を要する。だから、病人の神経にも触らない穏やかな曲を……、だとか、折角だからテレーゼの得意なフランスの現代物を、だとかいった理屈は抜きにして、咄嗟に、自然に流れ出たと云っても良い程弾き始めたのがドビュッシーの「月の光」である。無意識に、普通選曲の前に考えるべき先のような条件を満たしていたのは偶然だが、音楽は不思議と奏者の内面やその時の気分や感情、或いは周囲の環境を克明に顕すものである。
 短い小品が終わった時、無邪気にはしゃぐアンとジェニーの高い歓声が聞こえていた。
 腕を引きながらやや首を傾ぐように振り返ったテレーゼは、努めて出来るだけ静かにしていようとしながらどうしても体温の高さ故に忙しない動きをしてしまう少女達の前に、──静かに、満足気な晴れ晴れしい表情で莞爾としたシャルロッテを見い出した。
「……、」
 テレーゼは立ち上がり、背を屈めて寝台を覗き込んだ。今度はこうして母に近付く事が極自然と出来、また──恐らくは、シャルロッテの貌が先程と打って代わって生き生きとして見えた所為だ──自ずから晴れ晴れしい笑顔を見せて榛色の視線を合わせる事が出来た。
「……、」
 シャルロッテは、今の演奏がどうだったとも、何とも云わない。何も云わなくとも、視線だけで実に饒舌な会話を交わしている自覚はテレーゼにもあったのだが、照れも手伝って耳許で囁いた。
「……どうだった?」
 こう云って、再びシャルロッテの顔を覗き込んだテレーゼに、彼女はまた少し苦しそうな表情を見せて云った。
「愛してるわ、テレーゼ」
 ──その苦しみは、先刻からのように病の因果では無い。強いて云えば苦悩だった。シャルロッテが、末期症状の癌の苦しみなどよりも遥かに深い痛みを感じて生涯、今の今まで抱いて来た苦悩がその、たった一言へ込めた言葉の深さとなって現れていた。
「……、」
 テレーゼは、それに言葉としては何も返さず、優しいキスに情愛を込めて身を引いた。──私も、ともまた来るわ、とも何とも告げなかったのに、不思議と全てを通じ合えた自信があった。

 ■

 いつの間にか夕暮れに染まっていた空の下、今夜の宿探しが始まった。
 姉さんさえ良ければ泊まって行って貰っても良いんだが、というエリオットの申し出を断ると彼は「まあ、窮屈かな」と冗談めかしたが、テレーゼは首を振ってこう答えた。
「とても有り難いんだけど、──矢っ張りホテルを探すわ。独りで落ち着きたいの。……色々、気持ちを整理したいこともあるし」
「そう」
 じゃあ、決ったら連絡先だけ電話で知らせてくれる、とエリオットは屈託が無い。
「分かったわ、ナンバーを教えて」
「XX-XXXX……、」
 彼の繰り返した番号を手帳にメモして、復誦したテレーゼが顔を上げるとエリオットは満面の笑みを浮かべていた。
「……?」
「さっきの曲、母さんが一番好きだったんだよ。姉さんのピアノの中で」
「……、」
 その一言は、テレーゼの胸の内に再び様々な感情を呼び起こした。蜂蜜色の髪の中に手を差し入れて軽くこめかみを抑えながら、テレーゼは矢張り今夜は静かに過ごそう、と思った。気持ちを整理する時間が必要だ。
「また、来るわ、明日でも」
「待ってる。……何かあれば、連絡するから」
「それじゃ」
 そうして別れたエリオットに、落ち着いた先の市内のホテルから簡単に連絡を入れると今度はドイツの「実家」にも国際電話を掛けた。
『どう?』
 艶やかな赤い口唇の端が柔らかく持ち上がっている事が伺えるようなエリザベートの声を聞くと、ようやく浮ついていた気分が現実の自分に戻って行く気がする。受話器を持ったままテレーゼは寝台の端に腰掛け、軽く息を吐いた。
「矢張り悪いようなの。……当分は、こっちで過ごすわ」
 彼女に語りかけていると、自然とそれが自分の感情を整理する事となってぐちゃぐちゃに混乱していた糸の解れるような気分をテレーゼは味わった。そう、と簡潔な相槌を打つエリザベートの声は小気味良く電話口に響いた。
『そうそう、あなたがそちらに行っている事、ウィンに伝えてあるのよ。そのホテルに当分落ち着くのなら一言だけでも連絡してやってくれて? 心配していたようだけど、……ねえ、あの娘から電話する訳にも行かないでしょ』
 語尾をやや上げつつのエリザベートの言葉の真意に気付いたテレーゼは請け合って、通話を打ち切る事にした。
『それじゃ。──愛してるわ』
 別れ際の母の言葉を思い出したテレーゼはちくり、と胸が痛んだ。然し同じ言葉でも、エリザベートの口から聞かされるその言葉は大きな頼りとしてテレーゼの切なさで満たされた心を支えた。
「私も」
 受話口に軽い音を立ててキスし、電話を置いた。

 ■

 ──ピアノの音を聴いた気がした。……水滴の爆ぜるような音、……これはレコードかしら、あの……。

「……雨だわ」

 薄く目蓋を明けて覚醒したテレーゼはカーテンを引いた窓越しに激しく降り付ける雨音をぼんやりと聞いた後、サイドボードに嵌め込まれたデジタル時計の表示に目を凝らした。見ればまだ午前4時を半時程過ぎたばかりである。
 まだ夜中だわ、と思いつつ、到底もう寝付かれないだろうと思ったテレーゼは手許の照明だけを点けてぼんやりと起きている事にした。
 意識は次第にはっきりして行くものの、絶間なく降り続ける雨音がテレーゼを現実から遮断し、彼女は取り留めのない記憶の世界を漂っていた。
 寝台の脇に、昨夜夜着を取り出しただけで完全には荷を解かないままのスーツケースが半ば口を明けたまま置いてあった。テレーゼは緩慢にそこへ手を伸ばし、慎重に保護して持ち込んだレコードを引っぱり出した。母の、パヴァーヌのレコード。
 いい加減年季の入った紙製のジャケットは隅が擦れて印刷が褪せていたが、こうして雨音鎖じ込められた非現実的な心持ちで、薄明かりの中で眺めていると非常に鮮やかに見えた。ジャケットの中の若かかりしシャルロッテ・ミラーの姿と未だ記憶に新しい今の母の姿は、テレーゼの中で自然と折り重なって結びついた。
「……Pavane、pour une Infante、Defunte」
 母の肖像の上に関せられた文字を声に出して呟く間に、脳裏に彼のパヴァーヌが、母の……シャルロッテ・ミラーのピアノが奏する「亡き王女のためのパヴァーヌ」が澄んだ音を響かせた。硬質で、それでいて痛切なカンタービレで歌われるピアノの音に思いを馳せていると、心地が良かった。遠い昔、久しく忘れてしまった母の肱に抱かれる感覚を、明瞭に思い出して感じる事が出来た。──。
「……、」
 突如、サイドテーブルの上の電話器がけたたましい呼び出し音を立てて空気を震わせた。ピアノの幻は一瞬に消え、後には相変わらず打ち続ける雨音だけが現実的に残る。
「……!」
 テレーゼは否応無く現実に引き戻された感覚の中、信じられないように大きな目を更に大きく見開いて息を呑んだ。──少しの間を置いて受話器に手を伸ばすまでに、何故か一瞬の躊躇いがあった。
『お息みの所を非常に申し訳ありません、ミズ・ルクセンブルク、』
「いいえ、起きていましたわ」
 静寂を姦しい電子音で打破られた所為か或いは電話口のホテルマンの切羽詰まった口調の所為か、心臓が高鳴っていた。ちらり、とデジタル時計に目をやると既に時刻は5時を回っていた。
『御親族だと仰るミラー様からお電話を取り次ぐよう預かっているのです、お繋ぎしても宜しいでしょうか?』
「……何ですって?」
 テレーゼは訊き返した。──どうでも良い時に、雨音だけがやけに耳に付いて電話の声が聞き取り難い。
『何でも、至急の用向きだと』
「……、」
 間もなく、回線が切り替わった。動揺して視線を何故とも無く寝台の上に置いたままのレコードへ向けていたテレーゼは、エリオットの、先程のホテルマンとは対称的に全く落ち着いた、重々しい声を聴いた。
『──姉さん、……母が、たった今息を引き取った』
「……、……何ですって?」
 ジャケットに映された母の顔が、不意に白くぼやけたように滲んだ。

 ■

 葬儀の朝、エリオットの気持ちは終始浮ついていた。
 自然に込み上げる悲しみを、彼は現実的に自分の置かれた立場から心の内に押し隠して母を送り出さなければならなかったし、それに耐え得る精神の強さも落ち着いた年齢を重ねた彼には備わってもいた。
 今日の葬儀は身内だけの密葬である。著名なピアニストの葬儀となれば、やれ音楽界の関係者だの世界中に散らばった故人を知る誰某だのファンだのといった人間が押しかけて騒々しくなってしまう。彼らからの見送りも一人のピアニストとしての故人には嬉しいものだろうが、そうなればエリオットは弔問客の対応だけに追われて忙殺されてしまう。この日ばかりは彼も落ち着いて母を悼みたかった事もあるし、母もピアニストである前に一人の人間として、静かな最期の時を過ごしたいだろう。
 そうしてこの場には純粋に一人の亡き人を忍ぶ親族だけが集まった訳だが、その内訳は殆ど妻の親族のみである。──寂しい、と思うとエリオットは、夫にも先立たれ、一人ひっそりと送られる亡き母の気持ちを思うと悲しくなった。
 母の前の夫もその長子である兄も、この時ばかりは気持ちだけでも顔を見せてくれれば良かったのに、と思う。せめて、姉だけが心から母子の情愛を抱えて来てくれた事だけが救いだった。
 改めて感慨の目で姉の姿を追った時、然し彼女の姿はあまりにも小さく、心細く見えた。
「姉さん、」
 遠慮勝ちに肩に手を置き、呼び掛けられたテレーゼは案外はっきりした声でええ、と答えた。が、何に対して応えたものか、それきり再び黙り込んだ彼女の様子からは何一つはっきりとしなかった。
 呼びかけたエリオットはその様子に、不安気な表情をした。堪り兼ねたように、再び耳許で囁く。
「最後だから……、……別れを告げてやってくれないかな、姉さんからも」
「──、」
 矢張り、沈黙しか返らない事に彼はもどかしさと軽い絶望を覚えた。諦めて、今度は妻と、彼女が慰めている小さな娘達の方へ向き直った。
「義姉さんは?」
 妻の問いに、彼は肩を軽く竦めた。
「無理もないんだが、何しろ姉さんにとってはあんまり急な事だから」
 ──そう、あまりに急過ぎた。
 二日目の朝には、既に冷たくなった母に向き合わせられたテレーゼには今一つ、だからどうすべきだという実感が沸かなかったのである。もう半年も前から病身の母の衰えて行く様子を見守って来て、これからは実際的、事務的な物事を処理しなければならない彼よりはずっと、テレーゼは薄い膜を透かした外の世界から彼女の葬送を眺めるしかない人だった。
「もうこうなると、姉さんには姉さんの問題だからね」
 その時、僅かにテレーゼの目が動いた。予期せずしてその声はテレーゼに届いていたのである。
「お義母さんは、どうだったのかしらね?」
「どうって?」
「だって、──」
 ルーシーはどうとも云い兼ねて言葉に詰まった。彼女の腰にぎゅっと腕を回して大人しく押し黙っている娘の頭を撫でながら、複雑な気持ちで義母の気持ちを推し量った。
「あんなに悔やんでいたんじゃないの、義姉さん達の事」
「母さんは……、」
 振り返って柩を顧みたエリオットはやや目を見開いた。
 彼はそこに、母の柩の前に跪いた姉が、故人の額に口づけた光景を、何だか夢のように穏やかな気分で認めた。
 自然と、笑みが零れた。
「倖せだったに違いないよ」

 ■ 

 お帰りなさいませ、とベルボーイが笑顔で挨拶した前を、テレーゼはぼんやりと通り過ぎた。
 柩を送り出してからこうしてホテルに帰るまでも、特に何も考えなかった。故人をキスで送った事にも、何か、これといった思案があった訳ではない。ただ、彼女の耳にはどこか遠い所から流れるピアノの音だけが聴こえていた。
 それは、エリオットが「姉さんの問題だ」と呟いたのが耳に入った瞬間から聴こえ出したように思う。私の問題、──そう思った時、彼女の中で母の存在は若い頃から母への憧れや思慕を以て聴いて来た、あのパヴァーヌとして明確な形を取って現れた。
 彼女にとっての母の姿は、矢張りピアノだった。彼女が唯一テレーゼに残してくれたものもまたピアノだけだった。
 ニューヨークへ着いた時、母はこの主張を良しとするニューヨークの音楽界にいて倖せだったのだろうかと思った。音楽界の気風だけでみれば、もっと彼女のピアノに合った街もあった筈だ。
 然し母の眠った顔は穏やかだった。それは少なくとも、感性の相容れない街で自分を護る為に周囲と戦って来た孤独な戦士の顔ではなかった。テレーゼは最後のキスを、と願ったのは哀れみからではなく、その穏やかな満ち足りた様子に同調したからだったと思う。
 彼女は倖せだったのだ。母の人生は、最後まで、周囲に流されたり抑圧される事よりも自分の内にある情熱に従った女性の運命とすれば、──何より、眠り顔の穏やかだった様子を見れば、明確な確信をテレーゼに抱かせた。
「……、」
 そこまで考えて笑みを浮かべたテレーゼは、顔を上げた所で驚いて立ち止まった。
「ウィン」
 ──ずっと、彼女の帰りを待っていたらしい。ロビーのソファから今立ち上がった一人の若い女性が、身じろぎもせずに真っすぐテレーゼを見つめていた。それは、ニューヨークに留学している彼女と、パートナーの子供、双子の妹のウィンだった。
「……、」
 彼女の娘は、何も云わない。テレーゼも何をか云おうとして口唇を開いたが、上手く言葉が見つからなかった。
「……、」
 ウィンは静かに歩みよって来ると徐ら、白い羽根のようにしなやかな腕を広げてテレーゼを抱き締めた。背の高い娘から包まれるような格好で抱かれたテレーゼは、鼻先で揺れたウィンのプラチナブロンドの髪から甘い香りが漂ったような錯覚を覚えた。それは、ウィンがまだ赤ん坊だった頃から親しんで来た、ミルクのような子供っぽいもの、──血の繋がりよりも更に深い、家族の情愛を持った物だけが見つけられる、愛すべき匂いだ。
 この娘は私の子供なのだ、とその柔らかな背中を抱き返しながらテレーゼは思う。
「ウィン」
 ウィンは黙って目を閉じたまま、静かに首を振った。何も云わなくて良いわ、と訴えているようにも、有り余る愛情から首をテレーゼの胸に埋めようとしているようにも感じられた。
「……お母さん」
 ウィンが譫言のように呟いた時には、テレーゼは未だ彼女が小さかった頃のように、娘の身体を自らの腕で抱き締めて包み込むような格好になっていた。

- The End -


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