カプチーノ


 ウィン・ルクセンブルクの良く行く近所のスーパーの隣に小綺麗なペットショップがある。動物――特に犬や猫が好きなウィンはしょっちゅうそこのガラスケースを外から眺めていた。ペットを飼いたいという気持ちはあったが、動物を飼うということは責任が伴う。猫ならともかく犬なら毎日散歩に連れて行かなければストレスがたまってしまうだろう。生き物はぬいぐるみではないのだ。可愛いという理由だけでは飼えない。だから見るだけ、といつも自分に言い聞かせていた。日本の消費者金融のCMで一目惚れしたチワワ欲しさにローンまで借りてしまう父親が滑稽に描かれていたが、そういう感覚はウィンには理解できないものだった。

 ある雨の日のこと、いつもの習慣でウィンは店の外から眺めていたのだが、ふと、値段や犬種の書かれていないコリーらしき子犬がちょっと離れたところに寂しげにいるのに気が付いた。普通血統書付きの犬たちはいつ生まれたか、種類や色などが表示されているのである。最近は小型犬ブームのようだから、大型犬であるコリーは流行らないのだろうかと思いつつ、その子犬になぜか心惹かれもう少しゆっくり見たくて、ウィンは傘を閉じ店内に入っていった。
 「こんにちはー」と声をかけると、オーナーらしき中年女性が愛想良く「いらっしゃい」とそばにやってきた。雨のせいか、店には客は誰もいない。
「何をお探しですか?」と尋ねられるので、ウィンはあの子犬を見たくて、と言うと、オーナーはなぜか眉をひそめた。
「あの子は血統書付いてないんですよ、よろしいのですか?」
まるで血統書が付いていない犬には価値がないといわんばかりの口調である。ウィンはかちんときたが、こんなところでケンカしても仕方がないのでにっこりと微笑んだ。
「でも、見た目はコリーそのもののようですけど」
オーナーはウィンがコリーを欲しがっていると思ったのだろう。事情を説明し始めた。
 この子は女の子で、コリーのブリーダーさんから譲ってもらった子なんですけど。母親は優秀なチャンピオン犬だったのですが、ちょっと目を離した隙に妊娠してしまったらしくって。父犬も確かにそこで飼っていたコリーであることは間違いないらしいのですけど、父犬を特定できない以上血統書を付ける訳にはいかないので、お手ごろな価格で提供させて頂くことになったんですわ、とちょっぴり困ったようにしゃべっている。確かにちらりと見ると1万円という破格の価格だった。つまり雑種ではないが血統書も付けられないし、流行から外れた大型犬は買い手が付かないためにバーゲン品として売りに出されているという訳だ。
 それを聞いたウィンの口元に兄そっくりの笑みが浮かんだ。
「あら、ロマンチックじゃない。ブリーダーさんの決めた交配に逆らって結ばれたんだから」
「そうなんでしょうか」
オーナーは、子犬と同じように血統書のないウィンの気持ちなど知るよしもなく、お金持ちそうなウィンがそんな安い子犬ではなく、もっと高級な犬に目を向けてくれればと祈っているようだった。
「お客様がコリー犬をご希望なら、そのブリーダーさんから最上級の子犬を取り寄せることも可能ですわよ」
と必死に営業している。ウィンはそれにはかまわず、ちょっと触らせてもらってよろしいですか?とケージの中のいかにもコリーらしい茶色と白の毛並みの子犬に手をさしのべた。つぶらな茶色の瞳の子犬はウィンの手に鼻面をすり寄せる。従順で賢そうな顔をしている子犬だった。
 このとき不覚にもウィンはあの消費者金融のCMの父親の気持ちが分かってしまった。この子をうちに連れて帰りたい!
 だが、そんな理由だけで買いますとは言えなかった。ウィンにとってはわずか1万円。だが、犬はしつけも必要だ。大型犬だから餌代もバカにならないし、毎日の散歩もある程度の距離が必要になるだろう。
 しばらく子犬をなでた後、ウィンは「また来ます」と言って店を立ち去った。新しい家族を受け入れるなら、同居人の同意は必要不可欠だ。

 その晩ウィンは、夕食後コーヒーを飲みながらペットショップでの顛末を同居人であり婚約者でもある渋谷透に話して聞かせた。
「私、犬は大好きなの。実家でもずっと飼っていたし。それに……あの子、私たちと同じなのよ。父親が分からないからって、それだけの理由で邪険にされてバーゲン品扱い。くだらない感情移入なのかもしれないけど、あなたさえ良ければ家族が1匹増えても良いのかなってちょっと思ったの」
それを聞いたときの透の反応はウィンにとっては意外なものだった。
「オレだってウィンちゃんだって忙しいんだよ。ちゃんと世話できるの? 一時の思い入れで簡単に飼っちゃうのってどうかと思うなぁ」
その表情は真剣そのものだった。はっとするウィン。言葉を選びながらぽつりぽつりと答える。
「あなたの言うことはもっともだと思うわ。……だけど、私は犬を飼うのは初めてじゃないし、その大変さはよく知っている。どうしても大変なときはシッターさんにお願いするつもりだし……最後まで責任を持って飼うつもりよ」
いつしかウィンの目は潤んでいた。そんなウィンの前髪を透は指でくしゃくしゃにして、額にそっとキスをした。
「分かったよ。週末、一緒に見に行こう」
「今回は特別ですからね!」
とウィンが力説すると、透はその特別が何回あるのかな、と笑ったのだった。

 週末、ウィンは透と一緒に愛車のプジョー406でペットショップまで行き、子犬と再び対面した。その30分後、ケージに入った子犬と大量のペットグッズ、そして子犬用の餌を購入して帰ってきたのだった。
 家に帰って二人は、新しい家にまだちょっと不安そうな子犬を遠巻きに眺めながら、名前の相談をしていた。家が子犬のことを認識すれば、そのうち適当に間取りが変わって子犬の居場所が出来上がるだろうから小屋はいらないのである。
「ラッシーとか、ジョリーとか、カールとか、ヨーゼフとか、銀河とか、紋太郎とか、猩々左衛門(しょうじょうざえもん)とか?」
テレビっ子の透が挙げたのはほとんどTVか漫画に出てきた犬の名前である。ラッシーはともかく残りの名前のネタはウィンは知らなかったが
「それ男の子の名前混ざってる!」
と突っ込む。カールが以前つき合った……そして兄に奪われた青年の名前だとはさすがに言えなかったが。
「ちゃんとした可愛い女の子の名前付けてあげますからね〜」
ウィンは透を当てにするのはやめて、なぜか蔵書の中にあった「赤ちゃんの名前の付け方」という本をめくり始める。
 そんなとき、なぜか液晶TV付きインターホンが鳴った。画面を覗くと、珍しいことにウィンの兄ケーナズだった。手には紙袋を下げている。トレンチコートの胸元からのぞくネクタイからすると休日出勤した帰りのようだった。
「あら、珍しいこと」
ウィンは呟きながら、鍵を解除した。ケーナズは滅多なことではウィンの家には来ない。互いのテリトリーを邪魔したくないと言う妙に堅苦しい理由からだった。自分を犬科の動物だと自認しているケーナズらしい発想である。
 大股でケーナズが階段を上ってきた。そしてドアを開け、リビングの隅にある見慣れぬケージと子犬に気が付いたようだった。
「犬を飼ったのか?」
心底驚いているようだった。だが、興味関心がそちらに移ってしまったように、持ってきた紙袋をテーブルの上に置きコートを脱いでしまうと、挨拶もそこそこに犬の方ばかり眺めている。
「ケーナズ、犬好きなの?」
透が意外そうに言う。ケーナズは上の空で、ああ、と答えた。
 ウィンは兄に「その子を脅かさないでよね」と言いながら、持ってきた紙袋を覗いた。中に入っていたのは天才とも呼ばれている有名パティシエの作ったケーキらしい。ケーナズはこういうのに人一倍めざといのだ。ウィンが「人間ガイドブック」と呼ぶのは当然である。たとえ妹の家を訪ねるだけであっても、お土産は欠かしたことがない。だが、店は確か杉並区。ケーナズの職場は品川区だからこれを買うためだけにわざわざ回り道したことになる。

 じゃあ、とウィンがコーヒーメーカーの支度をしているとき、リビングからこんな声が聞こえてくた。
「よせ、カプチーノ!」
カプチーノ? ウィンは怪訝そうに振り返り、信じがたい光景を目の当たりにした。少し不安がっていたはずの子犬が兄の顔をべろべろ舐めているのだ。
「ちょっと、お兄様! カプチーノって何よ!」
ウィンが淹れようとしていたコーヒーをカプチーノにしろという意味ではなかったらしい。子犬に向かってそう呼んでいるのだ。
「勝手に名前つけないで下さいます!?」
ウィンがぷりぷりしながら言うと、透がにこにこしながら「あ、それ、良い名前かも」などと言い始めている。そんな透にケーナズが「こいつの白と茶の微妙に混ざった毛並みがカプチーノっぽいだろ」などと説明してる。子犬もその名前に異存がないのか、飼い主でもないケーナズにすっかりなついているのがウィンとしては腹立たしい。場の雰囲気で、子犬の名前はカプチーノに決まりつつあった。
 ウィンはお気に入りのウェッジウッドのコロンビアセージグリーンのコーヒーカップをテーブルの上に置くと、腕組みをして兄をにらみつけた。
「名前くらい飼い主の私が付けたかったわ」
事実上の敗北宣言である。確かに悪くはないと思ったのだ。

 ウィンと透が踊り出したくなるくらい美味しいケーキを食べている間も、ケーナズはカプチーノと遊んでいた。だがただ遊んでいるわけではなく、ちゃんとしつけているらしい。幼い頃から何匹も犬を飼ってきた、そして自ら「犬科」であるケーナズからすれば、自分の優位を示しつつしつけることはいともたやすいことなのだろう。
 そんな兄の姿を見ながら、ウィンがぽつりと呟いた。
「犬って、家族の中で自分は下から二番目と見なす傾向があるんですって」
その次の瞬間ウィンとケーナズの視線が、なぜか透に集中していた。
「舐められないように頑張るんだぞ」
「最初が肝心らしいわ」
「なんでオレ?」
憮然とする透だった。

- End -


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