EOLH


 1月下旬のある晴れた午後、卒論を期限の3時間前に提出したウィン・ルクセンブルクは、大学の近くのオープンカフェで開放感というよりはむしろ虚脱感を味わっていた。日本の仏教文化の歴史に関する卒論は半年前から準備してきたので、寝る間を惜しんで仕上げを行ったのはここ1週間だけだが、バイタリティ溢れるウィンであってもさすがに疲れた。恋人の渋谷透も、もうそろそろ卒論の追い込みなので大学に寝泊まりすることも多く、しばらくろくに顔も会わせていなかった。今日は卒論を無事提出できたお祝いに透も帰ってきてくれることになってはいたが、明日になればまた出て行ってしまうのだろう。
 カフェラテを飲みながら、先ほど買ってきたばかりの奈良のガイドブックをぼんやりと眺めるのだが、内容は頭に全然入ってこない。卒業旅行で京都・奈良に行く予定になっていて、宿は既に予約してあった。ウィンがどうしても東大寺のお水取りを見たかったのだ。だから旅行の日程は3月14日前後となっている。世間ではホワイトデーらしいが。
 京都とは違った奈良の風情ある仏像に思いを馳せようとはするのだが、先ほど提出したばかりの卒論とイメージが被ってしまってどうもうまくいかない。ウィンは卒論のことを忘れようと頭を振った。後は半月後にある口頭試問だけなのだ。それが失敗するとは思わなかったが、今だけはそのことを忘れていたい心境だった。
 とはいえ、4月に社会学部の文化人類学科に編入するまでほぼ自由になったウィンには考えることが色々あった。まずは透との今後のこと。これはあまり心配していない。恋愛なんてなるようにしかならないのだ。結婚となると話は別だが、少なくとも先日ドイツにクリスマス休暇で帰省したときは母達は透のことを心から歓迎してくれたし、透も母達に良く懐いていたようだ。何処まで伝わったかは不明だが、実家の複雑な事情も伝えてある。

 それよりもウィンの頭痛の種は……
「シドニー……」
その名を苦々しく呟く。先日とある事件で出会った日仏ハーフの美少女。音楽で人の心を支配するために文化遺伝子「ミーム」を生み出そうとしている娘。ウィンはやろうと思えば超能力によって心の中で念じるだけで彼女の指を折ったり、意志を挫くことはできる。だが、できることと実際やることは全然違うのだ。それは幼い頃から母達がウィンや双子の兄ケーナズに繰り返し言ってきたこと。自分の思い通りにならない人間がいたからといって、それをすべて超能力で排除していったら二人は社会から排除される。「人間」として社会で生きていくためには、法と秩序を守らなければならない。それは絶対のルールだ。
 それに、ウィンは己の信念として、危険な思想だからと言って強制的に排除していくことは危ういことだと思っている。例えば差別が悪だからと言って、差別主義者を弾圧してもそれは真の解決にはならない。むしろ、弾圧は反発を呼び、思想は過激化していくかも知れない。
 ウィンはシドニーを排除するつもりはなかった。多少のプレッシャーはかけさせて貰うくらいは許されるだろうが。重要なことはむしろ、不健全なミームを潰すことではなく、健全なミームを育成することだろう。音楽は人の心を操る道具なんかではない。幼い頃から美しい音楽に囲まれて育ったウィンはそう思う。自分はプロになるほどの才能には恵まれなかったけど、その代わり確かな審美眼は養われたはずだ。
 従弟の葛城樹も常々言っていたが、音楽を学ぶのにはお金がかかる。父親が実業家で母親が世界的なソプラノ歌手である樹自身は金銭面で苦労したことはないが、その友人達は教育資金の工面にかなり苦労しているらしい。裕福で、しかも音楽を学ぶことに対して理解のある親は少ない。奨学金を貰うにしても、雀の涙にしかならないだろう。才能はあるのに、資金面で恵まれず夢半ばにして挫折する若者もいるかもしれない。
「そんな人たちを発掘できれば……」
通りを歩いていくコートを着た人々を頬杖を付いて眺めながらウィンは呟き、その瞬間からウィンの脳細胞が活性化し始めた。

 今回の件とは全然関係なく、ウィンは以前から憧れていた応仁守音楽事務所の社長応仁守雄二氏に、ホテルのレストランでミニコンサートをお願いしていた。それは単純に彼のギターが聴きたかったからなのだが、これは案外いけるかもしれない。ミニコンサート用に既にベヒシュタインA189は購入してあった。(そろそろ兄の車道楽を笑えないかも知れない。)レストランを音響効果も考慮した構造に改装し、定期的に若手音楽家達のミニコンサートを企画する。そして時々、コネを利用しつつ著名な音楽家(要するに叔母や、最近パトロンとなったピアニスト結城忍氏など)を招待し、なるべく大勢の客に来て貰う。樹が無事音大入学してくれれば、音大の学生のコネも広がるだろう。本当に才能のある学生に対してなら奨学金を支給しても良い。
 常々兄からは、株式投資で無駄に資産を増やしているくせに全然有効に活用していないとか、もう25才なのだから無駄な勉強ばかりしていないで本格的に仕事をしろと言われていて多少の罪悪感は感じていたので、良い機会なのかも知れない。2ヶ月前に引っ越しをして叔母の家の居候という不名誉な身分からも脱出したし、人に任せっぱなしのホテルの経営もオーナーとしてもう少し本格的に乗り出そう。伊達に2年間ニューヨークの大学で経営学を学んだわけではないのだ。
 「そのためには日本で会社設立した方が良さそうね」
ウィンはひとりごちた。とはいえ、さすがに日本の法律には明るくない。自分で苦労するよりは信頼できる専門家に頼った方が確実だし早いだろう。学生らしい大きめの鞄から携帯電話を取り出すと、とある登録番号を検索して早速かけ始める。
「あ、叔父様、ウィンです。お久しぶりですが、お元気ですか?」

 その晩、ウィンは透とありきたりではあるが新宿アルタ前で待ち合わせをしていた。卒論提出のお祝いということなのだが、兄のようにいつも高級レストランばかりでは飽きてしまう。新宿の気楽な居酒屋で乾杯をするつもりだった。
 なかなか現れないので携帯で呼び出そうとしたが、聞き慣れたメッセージ「お客様のおかけになった番号は、電源が入っていないか電波の届かない所に……」が返ってくるばかりだ。地下鉄に乗っているから電波が届かないのだと好意的に思ってあげても良いのだが、恐らくは数日家に戻っていないから充電が切れたのだろう。もう……と呟きつつ、忍耐強く待つことにする。
 それから15分後、よれよれの格好をした透が現れた。普段は格好に気を遣っているのだが、さすがにその余裕もないようだ。実験室の深いシンクを風呂代わりに使っているらしく、清潔さだけは意地で保っているようだった。
「お疲れさまー」
ウィンはにこっと微笑むと、優しく抱擁しちゅっと頬にキスをする。透の顔がほころんだ。
「ウィンちゃんこそ、お疲れ様でした。待たせてゴメンよ。なかなか抜け出せなくて」
「全然気にしないで。実験の方が大事だから」
それはウィンの本心だった。
 透はウィンの肩を抱き、ウィンは透の腰に腕を回しながら、予約してあった居酒屋に仲良く歩いていく。

 目的の居酒屋は、カジュアルではあったがきちんと仕切られた個室が準備されていた。これなら遠慮無く色々なことが話せる。
 とりあえずと頼んだビールの中生で乾杯しながら、ウィンはようやくほっとした。ノートパソコンのハードディスクのトラブルに巻きこまれることもなく、土壇場で風邪を引くこともなく、無事提出できたことは幸せだと思う。食事を作る余裕すらなくて連日ハンバーガーとか食べていた気もするが、もうそんな不健康な食生活ともおさらばだ。
「今日は思い切り飲んじゃうわよ」
そう言うと、透は笑った。
「それはいつものことじゃない?」
 やがて頼んでいた寄せ鍋が運ばれてくる。鍋奉行の透にすっかり具のことは任せて、ウィンはあっという間にビールを飲み干し、代わりに冷酒を注文する。熱燗はどうも苦手だった。日本酒は冷やに限る、ウィンはそう思っている。
 美味しい食べ物に飢えていたのは二人とも同様だったらしい。鍋が良い具合に煮えてきたら、黙々と鍋をつつき始める二人。やがて運ばれてきた大吟醸を頂きながら
「こういうの五臓六腑に染み渡るっていうのよね〜」
と言うと、透にオヤジ臭いと言われてしまった。二人で顔を見合わせて笑い合う。

 鍋もあらかた空になり胃が落ち着いてくると、ウィンは先ほど決めたことを伝えることにする。遠くでは時々楽しそうに歓談する人々の声が聞こえてくるが、話を邪魔するほどではない。
「あのね……私、会社を設立することにしたの」
既に大吟醸を2本開けていたが、ウィンの顔色は全然変わっていない。それを聞いた透は開口一番
「大学はもう良いの?」
と聞いてきた。ウィンは現状を説明する。
「あ、編入はするわ。ほら、覚えているかしら、以前紹介したと思うけど、桐生アンリ教授。あの方の研究室に所属して文化人類学を学ぶつもりよ。でも、私、今まで無駄に学生生活長かったから、蓄積した単位が山のようにあるの」
そう言ってくすりと笑う。
「だからさほど必須科目はないのよ。研究室でのゼミといくつか専門の講義を取ればそれでほぼ終わり。去年よりも時間ができるから、ちゃんと会社を設立して今のホテルをもり立てるつもりでいるわ。だから心配しないで」
「良いと思うよ。オレ、ウィンちゃんがちゃんと仕事することに賛成だな。できる限り協力するから」
「良かった」
ウィンの顔がほころんだ。結婚していなくても、二人は同居しているのだ。仕事をすれば何かしらの影響は出てしまう。反対されたらなんとなく居心地は悪い。
「会社の名前はどうする?」
そう尋ねられ、ウィンは手近にあった紙ナプキンに鞄から取り出したボールペンで“EOLH”と綴った。
「エオルって発音するの。これも私達の名前同様ルーン文字の一種ね。元々は大鹿を表し転じて保護という意味になったらしいわ」
透が目をぱちくりさせた。
「会社の名前の意味にしてはちょっと不思議な気もするけど?」
「そうねぇ。ほら、年末私がレイさんのお父さんのパトロンになったのを覚えている?」
「パトロンって何だっけ」
パトロンの意味がよく分かっていないらしい。ウィンは辛抱強く説明する。
「水商売の女性を援助する旦那って意味もあるけど、そうじゃなくて、芸術活動を支援するために資金提供をしてるってこと」
そうなった背景はあまり詳しくは説明していなかった。透と結城レイは仲が良く、プライバシーに立ち入るような話をウィンはあまりしたくなかったからだ。純粋な……純粋すぎる芸術家である結城忍は、放置しておけばまた誰かに利用される恐れがあった。だからウィンは差し出がましいことかもと悩みつつ、保護することにしたのだ。その才能はすばらしく、路頭に迷わせるにはあまりにも惜しかったという理由もあったし、結城姉弟に対する感情移入も当然ながらあった。兄のケーナズからは磔也への過度の感情移入と甘やかしは危険だと忠告されているし、ウィンもそれを否定するつもりはなかったので、磔也のことは基本的に「パパ」こと太巻大介に任せるつもりでいたのだが。
 とりあえず透には忍氏の才能が魅力的だったからとだけ説明し、彼のような中年のピアニストを支援するだけではなく、もっと若手の音楽家を支え育成したいのだと熱っぽく語った。
「私とお兄様は事故で亡くなった祖父母から遺産を継いだのだけど、それが予想以上に多額だったからお兄様の分もまとめて資産運用していたの。主に株式投資なんだけど、幸い失敗しないで済んでいるわ。ただね、それをただ眠らせておくのが最近惜しいと思うようになってきたの。忍氏の支援をすることもきっかけになったのだけど、私の資産で素敵な音楽家達が大勢育ってくれたらどんなに素敵なことか」
そう、シドニーの言うミームに対抗することだけがウィンの目的ではない。純粋に音楽に対する憧れは常にウィンの心にある。ウィンはプロのピアニストになれるだけの才能はなかったが、才能を持つ人々を伸ばしてあげたいという熱い思いはあったのだ。
「ヨーロッパでは古くからノブレスオブリージという言葉があるけど、そんな堅苦しいものじゃなくて」
たぶん透にはノブレスオブリージもよく分かっていないと思う。でも敢えて説明はせず、ウィンは微笑み、おちょこに残っていた大吟醸をぐいと飲み干した。

 翌朝、透を大学まで青いプジョー406で送ったウィンは、そのままちょっと前まで居候させてもらっていた叔母のお台場のマンションを訪ねた。昨日アポを取っていたので、叔父の葛城健人もいるはずだった。
 叔母が見慣れたリチャード・ジノリのイタリアンフルーツでダージリンを淹れてくれる間、ウィンは熱心に叔父としゃべっていた。叔父は馴染みの司法書士と公認会計士の名刺のコピーをウィンに渡してくれた。
「ちょっと見ない間にずいぶん頼もしくなったな」
叔父はウィンをからかう。
「そういえば、渋谷君は元気かい?」
以前叔母のお茶会に透を連れて行った所、なぜか叔父と透が意気投合し、二人きりで深夜までしゃべっていたのだった。なぜそんなに気が合うのだろうと、叔母とウィンは首を傾げていたのだが。
「元気ですよ。今は卒論でものすごく忙しいみたいですけど」
「そうか。もう彼も就職なんだな」
「透さんの卒論が終わったら、またうちに遊びにいらっしゃいな」
叔母が優しく微笑む。叔母は自分の予言(「近くて遠いあなた」参照)が当たったのが嬉しくて、透のことを贔屓にしているらしい。
 ウィンはフォションのダージリンを味わった後、少し遠慮がちに叔母にホテルのミニコンサートへの出演交渉を始めた。
「叔母様、だいぶ先になると思うのですけど、ミニコンサートに出て下さいますか? もちろんギャラははずみますから」
柔らかい叔母の顔がプロの表情に変わった。
「ウィン……あなたに協力するのは私もやぶさかではないのだけど、私は音響には煩いわよ? それに伴奏はどうするの?」
「音響についてはぜひ叔母様のご意見を伺いたいのです。必要な改装費を惜しむつもりはありません。伴奏は……」
ちょっと考えてから事後承諾になると思いつつ結城忍氏の名前を挙げた。
「叔母様も、東京コンセルヴァトワールについて何か気が付いたと思います。もしかしたら樹ちゃんからも話を聞いているかも知れませんが……知ってしまった以上私は自分でできることをしたいんですわ。樹ちゃんも受験が終わったら協力してくれるって言ってくれているし、必要ならばテレーゼにだって協力を仰ぐつもりです」
義母のテレーゼのギャラくらいウィンも知っている。叔母にしろテレーゼにしろ無名のプロモーターが呼べるような人物ではないのだ。
「身内であるコネを使うことがずるいことは百も承知してます。でも、私は音楽を人の心をゆがめたり、人生をめちゃくちゃにするために使うことは許せないんです。批評・批判はどんどん受け入れますから、叔母様、ぜひ協力して下さい」
ウィンは真剣に語った後、丁寧に頭を下げた。
叔母はウィンをじっと見つめ、それから微笑んだ。
「ウィン、あなたの決意はちゃんと伝わってきたわ。若手の音楽家が活動できる場所を提供することは大賛成よ。アドバイザーとして協力させて頂くわ。私が口を挟むと、ちょっと改装費が高くなってしまうのだけは許してね。そういうのが得意な建築家を知っているの。もし良かったら紹介させて」
「はい、ありがとうございます! どうかよろしくお願いします」
ウィンは再び頭を下げた。

 それからウィンは叔父から紹介して貰った司法書士に会社設立に必要な手続きの説明を受け、行動を開始した。それと同時にホテルの改装を始める。今までホテルは単なるオーナーであり、経営は主に支配人達に任せていた。実家の古城ホテルの宣伝と日本観光に来たドイツ人達の宿泊場所提供が主な目的だったため、採算はあまり考えず趣味で経営していたようなものだった。だが、これからはミニコンサートを目的に泊まりに来る目の肥えた日本人を意識し、採算もしっかり考えていかなくてはいけない。
 いったん営業は休止し、専門家の意見を採り入れつつなおかつ自分の趣味は反映させながらホテルのインテリアを決めていく。このときは趣味の良い透の意見も参考にした。レストランの改装を優先的に行って貰い、以前から予定していた応仁守雄二氏のミニコンサートだけはできるようにした。これはあくまでもウィンの趣味なので、親しい身内だけを招待したアットホームなものになる予定である。とはいえ、音響設備に問題がないかチェックすることもできるので、叔母や依頼した建築家にも来て貰うことにした。
 相変わらず透は留守がちだが、その寂しさも忙しさに紛れていた。そんなある晩のことドイツから国際電話がかかってきた。実母のエリザベートである。
「最近、頑張っているらしいわね」
ウィンが特に何も言わなくても、母に情報をリークする人々が複数いる。母にはホテルの今後のことしか話していなかった。
「今、株式会社設立の申請を行っている所ですわ。忙しいけど充実してます」
「そう……楽しそうで何よりよ」
電話の母の声はなぜか嬉しそうだった。それからちょっと改まったように声のトーンが変わる。
「アレックスを会社の役員に迎えるんですってね。でもあんまり叔母様に甘えちゃダメよ」
「……はい」
ウィンの声も少し緊張する。
「自分が恵まれすぎるほど恵まれているってことは承知していますから」
「分かっていれば良いのよ。あなたの志はテレーゼも喜んでいたわ。さすが我が子ですって」
母がくすっと笑った。
「さすがにそう何度もは日本に行けないけど、機会があればタダで協力してあげるですって」
「テレーゼは今そちらにいないのですか?」
「今アメリカに行っている所。1週間後に戻ってくるから、そのとき直接話すと良いわ」
「はい!」
ウィンの声が明るくなった。
 これで用件は終わりかと思ったのだが、珍しく母は話を続けた。
「わたくしね、あなたが会社を設立すると言い出したとき、正直驚いたの」
「え?」
「実はね、あなたはあまり経営には興味がないのかと心配していたのよ」
母が本音を話すことはほとんど無い。ウィンは心底驚いた。
「そんなことはありませんわ。今までは、大学が忙しかったから……」
とは言ったものの、実際のところそうだったかもしれない。わざわざアメリカまで留学して本格的な経営学を学んだにもかかわらず、母の仕事を手伝う気持ちにもなれなくて、就職した兄が日本法人に派遣されることが決まったことにかこつけて付いてきてしまった。経営が性に合っていないというよりも、十代の時突然家を継ぐことが決まったことに対する反発だったのかもしれない。その当時のウィンの夢は大学教授になること。兄のケーナズが経営には向いていないからウィンが跡を継ぐと突然母が決めたときは文字通り青天の霹靂だった。向いていないことは妹の目から見ても明らかだったから母の決断は正しかったと思う。だが、あまりにも突然のことにウィンは気持ちの整理が付かなかった。だからせめて大学で学びたいことを存分に学ばせてくれとお願いしたのだった。そうしてずるずると約9年が経過してしまった。(飛び級をしたウィンが大学進学をしたのは16才の時)
「兼業は大変だと思うけど、初志貫徹なさい」
母の声は優しかった。ウィンが日本に留学すると言ったとき、それに反対したのはエリザベートではなくテレーゼの方だった。あの穏和なテレーゼがウィンは勉強自体が目的になっていると言ったのだ。それに対してエリザベートはテレーゼに「もしそうだとしたらそのうち飽きるわよ」と言って笑っただけだった。
(私は勉強に飽きた訳じゃなくて、今自分がやるべき事が見つかっただけ)
ウィンは受話器を握りしめ、そう思う。今でも新しいことを学ぶ喜び・情熱は消えていない。でも学ぶことは仕事をしながらでもできる。恋人の透が苦労しながら学費を稼いでいた姿をウィンは見てしまった。もう甘えられない。
「はい」
母の言葉を神妙に心に刻み込む。エリザベートはさらに続けた。
「透は元気なの?」
叔父と同じ事を聞いている。ウィンは微笑した。
「元気だと思いますわ。ここ数日会っていないんです、今卒論の追い込みで」
「ああ!」
と納得したようだった。
「この春就職って言ってたものね。そのうち就職祝いを贈るわ」
透は何故か親族達に評判が良い。あの天真爛漫さが受けているのだろう。先日のクリスマス休暇の時、エリザベートとテレーゼは競うように透と話したがった。母を幼い頃に失った透はそれは幸せそうに懐いていたものである。ケーナズが実母を畏怖しているのとは好対照だった。
「透も喜ぶと思いますわ。スーツやネクタイなんて何着あっても困りませんし」
「そうね♪」
母の声は弾んでいた。

 電話を切ったウィンは、これからのことを思い描いた。ホテルの改装が済めば本格的に稼働が始まる。そうなる前に、会社の信頼できるスタッフも探さなければならないし、ミニコンサートの出演者を確保しておかなければならない。複数の音大に声をかけて、ウィン自らがオーディションを行う必要がある。それとは別に、結城忍氏のコンサートのプロデュースも行わなければ。とても忙しくなるはずだ。身体がいくつあっても足りないかも知れない。でも、忙しいのは幸せだと思った。
 そんなとき、リビングのテーブルの上に置いてあった携帯電話が鳴り始める。その着メロは透専用のものだった。ウィンはそそくさと携帯を取った。
「もしもし」
「あ、オレだけど今日は帰るよ。お風呂にゆっくり浸かりたいなー」
「じゃ、お風呂の準備しておくわね」
ウィンは心底幸せそうに微笑んだのだった。

- The End -


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