ちぇんじ


 ある週末、ケーナズ・ルクセンブルクの元に航空便が送られてきた。差出人は母であるエリザベート。箱を開けてみるとお菓子類と手紙が入っていた。手紙にはこう書いてある。
「先日テレーゼの演奏旅行に同行してヨーロッパ周遊旅行をしてきました。そのときのお土産です」
 ケーナズは首を傾げた。いい年をした息子にお土産だとお菓子を送る母ではないはずだ。裏の職業柄という訳ではないがつい疑ってしまう。だが筆跡は間違いなく母自身の物だった。
 実の母に対して疑り深くなっても仕方ないとケーナズは思い直し、お菓子の入った蓋を開けた。とりあえず味見くらいはしておこうと、ろくに中も確かめずに一番上にあった大きな飴を口に放り込んみ、先日発表された生化学の論文に目を通すためソファに座った。
 しばらくは論文を興味深く読んでいたのだが、なぜか体が熱くなり、同時に激しい眠気が襲ってきた。風邪のひき始めだろうか? 明日は珍しく何も予定は入っていない。月曜までには治しておかないと。そう思い、自らが開発した風邪の初期症状に効く薬を飲むと、さっさとパジャマに着替えて就寝することにした。

 それより1時間程後、双子の妹ウィン・ルクセンブルクも同様の箱を開けて、同様の内容の手紙を読んでいた。
 ウィンは兄と違って疑問にも思わなかった。確か以前母に国際電話を掛けた時2週間ほどテレーゼに同行して旅行をしてくると言っていたから。
 お菓子の蓋を開けた。ちょうどそのとき喉がいがらっぽかったので、一番最初に目に付いた大きな飴を口に放り込んだ。同居している叔母アレキサンドラにも勧めようとしたが、叔母はたまたま入浴中だった。ウィンは蓋を閉めると、食器棚にそれをしまい、月曜に提出しなければならない桐生教授の講義のレポートを書くために自室に向かった。
 机に向かっていたら、やたら体がほてり眠くなってくる。本格的に風邪を引いたかしら?と思い、ケーナズが送ってきた風邪薬を飲むことにした。
 お気に入りのさっさとパジャマに着替え、布団に潜り込んだ。明日はアルバイトも入っていない、遠慮なく一日中寝てられる、レポートは明日の夜書こうと思いながら。

 ケーナズは喉が渇いて目が覚めた。相当汗をかいたのだろうか。水を求めて立ち上がろうとして違和感を感じた。パジャマが妙にゆるいのだ。
「おや」
口に出した瞬間、我が耳を疑った。声がおかしい。風邪でかすれたのなら理解できるのだが、妙に甲高い気がしたのだ。変声機を通したらこんな声になるのだろうか……いや、むしろ母の声に似ていると思った。
 無意識に喉に触れ、猛烈な違和感を感じた。妙に喉がすべすべとしている。そんな馬鹿な……と目線を下に移したケーナズは絶句した。なぜか胸が出っ張って見えるのだ。
「ええ!?」
と自分の胸に触って、卒倒すると思ったほど激しく動揺した。ご自慢の胸板が妙に柔らかくなっていた。しかも異様に大きい。
 ケーナズは姿見の前まで急いだ。そこに映っていたのは、だぼだぼのパジャマを着たスタイルの良い金髪美女。
「ウソだろう…?」
さすがのケーナズも信じがたい己の姿に、へたへたと床の上に座り込んだのだった。

 ウィンも喉が渇いて目が覚めた。
「水〜」
うめきながらベッドから起きあがろうとして、自分の野太い声に愕然とする。風邪が悪化して声がおかしくなったのだろうか。おや、と思って何気なく手に顔をやったのだが、指が奇妙な違和感を覚えた。
「な、なによ、これ」
それは生えかけた髭の感触。慌ててぺたぺたと身体を触り、自分の身体が無骨なものへと変化していることに気が付いた。着ていたパジャマは妙に窮屈だ。
「冗談でしょー!」
ウィンは鏡台の前に急いだ。そこには、サイズの小さいパジャマを無理矢理着たような逞しい金髪の美丈夫が映っていたのである。
「うわぁー!!!」
雄叫びのような声で絶叫するウィン。そこに、聞き慣れない男の声に驚いた叔母が慌てて飛び込んできた。
「ウィン、どうしたの! って、あ、あなた誰ーーー!!!」
声楽家の叔母がさらに張りのあるすばらしい声で絶叫する。あまりの音量に、ウィンは鼓膜が破れるかと思った程だった。

 叔母の留守がちな夫(彼は世界を股に掛ける実業家なのである)の服をとりあえず借りて着替えると、ウィンは叔母から紅茶を淹れて貰った。叔父の服でも男性化したウィンには小さかったのだが、こればかりは仕方がない。
「まずは、どうしてこうなったかを考えましょ」
叔母は落ち着いた口調でそう言った。さっきは見知らぬ男性がウィンの部屋に侵入したと思ったから大声を発したのだが、それがウィンと分かればあたふたしても仕方がないというのが叔母の考えだった。叔母は双子の超能力のことも知っており、姉エリザベートに振り回された長年の経験から多少のことでは動じなくなっていたのだ。
 ウィンは紅茶をすすりながら、昨日の自分の行動を話し始めた。大学に行って授業を受け、昼食はいつもと同じ学食、午後は仲居のアルバイトをして、まかないの食事を食べた。それから家に帰って母が送ってきた航空便を開けて、飴を食べ風邪薬を飲んだというのが昨日一日の行動である。それを聞いた叔母はウィンの友人や、アルバイト先にてきぱきと電話をかけ始めた。ウィンの声は叔母の一人息子である樹の声に良く似たテノールに変わっており、不審がられるためである。
 とりあえず誰もそういう現象に見舞われた人間はいないことから、原因は飴と風邪薬のどちらかではないかということになった。もっとも風邪薬に問題があれば、この世の中には性転換している人間が溢れているはずだ。すると……
「あの飴かしら!?」
ウィンは昨日しまい込んだお菓子の缶を引っ張り出してきて、開ける。おかしい。他は飴ではなくクッキー類だったのだ。不自然に1つだけ飴が入っていたと言うことになる。
「包み紙は?」
と叔母が言うので、ウィンはゴミ箱から昨日捨てた飴の包み紙を探し出して、広げてみる。それには"Wonderful candy"と印刷してあり、目をこらして良く読むとこんなことが書いてあった。直訳するとこんな感じ。「この飴はあなたを不思議の世界に案内してくれるでしょう」
「なによ、これ!」
テノールの魅惑的な声なのに女性言葉のままでウィンは叫ぶ。
「飴をなめたぐらいで性転換する物なの?」
冷静な叔母の突っ込み。だが、怪奇現象にしょっちゅう出くわしているウィンは首を振る。
「いいえ、この世界ならなんだってあり得るわ」
「ええと、それ、お姉様から送られてきたのよね。もしかするとケーナズの所にも届けられていないかしら?」
「たぶん届いていると思う」
どんなときでも娘にだけひいきをする母ではないのだ。じゃあ、と叔母は今度は六本木のケーナズの家に電話をかけ始めた。なかなかケーナズが出ないので、留守かしら?と叔母が呟く頃、ようやく誰かが電話を受けた。
「もしもし……」
という力無い女性の声に、あら、かけ間違えたかしら?と叔母が言う。すると、その女性がいきなり
「アレックス叔母様?」
と救いを求めるような声で言うではないか。叔母が恐る恐る言う。
「ケーナズ?」

 ケーナズも性転換してしまったということを知った叔母の行動は迅速だった。ウィンに、「あなたの服をケーナズに貸してあげなさい」と指示し、ウィンに適当な服を準備させた後、服が若干小さいためなんとなくつんつるてんな印象が否めないウィンと一緒に六本木のマンションに、愛車のメタリックシルバーのBMWで向かうことにした。
「叔母様、仕事は?」
とウィンが心配するが、叔母は可愛い甥姪のピンチなのだから大丈夫よ、とウィンクしてみせる。その代わりレッスンと称して、今度主演する「椿姫」のアリアを狭い車内で歌っていたが。
 ウィンはいつもよりも助手席が狭く感じられて奇妙な気分を味わっていた。男性化した時に背も15センチほど伸びてしまったらしい。180センチはあるという叔父は日本人の基準からすると大柄な方だったが、それでもその服は、特に肩と首周り、そしてウェストがウィンには窮屈でたまらなかった。
 バックミラーに映る見慣れぬ男の姿にウィンは顔をしかめた。髪の長さはそのままだったから、仕方なく後ろで結んでいる。一見業界人という雰囲気だったが、ウィンはふと「一昔前のロック歌手みたい」と思った。
 先ほどどうしようもなくて用足しに行ったのだが、自分の身体が改めて男になったと思い知らされ力無く笑うしかなかった。当然ながらソレは他人のしか見たことがない。自分の身体に付いているという不思議な感じに、つい好奇心からまじまじと観察してしまったのは他人には口が裂けても言えない話だが。くよくよしたって始まらないのだ。これがすぐにでも治るのか、それとも一生お付き合いしなければならないのかすら分からないのだから。 マイペースにアリアを歌っている叔母もきっと、自分が慌てたらウィンも動揺すると判断して、平気な振りをしているのだろうと思った。でも叔母がいてくれて本当に良かった。これで一人暮らしをしていたら、冷静な判断が出来たかどうかは怪しい。

 運転手自らがすばらしい歌を披露している珍しいBMWは、なんとか六本木のマンションの手前で停めることが出来た。ウィンは多少ドキドキしながら叔母の後ろを付いていく。ちょっとでも男らしく見えるように歩こうと心がけながら。気を抜くと「おかま」のようにしか見えないことに気が付いていた。ウィン自体は「おかま」に対して偏見はないが、身長190センチ弱の「男」がなよなよと歩くのは端から見ていて落ち着かない物である。

 マンションの入り口のインターホンでケーナズを呼び出す叔母。やや間があってからオートロックが解除される。
 エレベーターで最上階にあるケーナズの部屋の前まで来たとき、ウィンはここに来たのは半年ぶりであることに気が付いた。兄と和解してからもここに立ち寄ったことはないのだ。
 叔母がドアをノックすると、すぐにドアが開いた。そこには白いバスローブを着て血の気の引いた気だるそうなセクシー美女が立っている。見た瞬間、不謹慎にも母とグレーテル叔母を足して二で割った感じとウィンは思ってしまったのだった。
「ウィン……叔母様……」
ケーナズは二人を見ると、明らかにほっとしたような表情になった。いつも尊大な兄でも動揺することがあると知ってウィンは密かに嬉しくなった。
 ウィンが自分の持参した服(そこにはおろしたての下着も混ざっていた)を見ると、ケーナズは顔をしかめた。
「これ着るのか?」
母エリザベートそっくりのメゾソプラノで言うケーナズ。
「現実を直視しなさいよ」
豊かなテノールで答えるウィン。ウィンはさっさと兄の服を借りて着替えたかったのだ。ぐずぐずしている兄に腹が立つ。
「さっさと着替えて。まさか、下着の付け方知らないとか戯けたこと言わせないわよ?」
ケーナズはウィンを恨めしそうに見つめたが、諦めたように目の前の服を手にバスルームに向かう。だが、しばらくしても戻ってこないので、ウィンはバスルームの前に陣取った。
「手伝おうか?」
「……ああ……」
帰ってきたのは情けない声。どうもブラジャーを上手につけることができなかったようだ。四苦八苦している。
「脱がせることは出来ても、着ることは出来ないのね」
鬼のようなウィンの言葉責めに、ケーナズは妹?を睨みつけたが、立場が弱いのは明らかだった。ウィンに下着の付け方を教授して貰うしかなかった。
 ウィンは兄?の美しい身体に惚れ惚れしていた。サイズはどうやらかつての自分と同じくらいなのだが、本体がジムで鍛えているせいか胸は豊かだがやや筋肉質で引き締まっていた。これが血の繋がった兄?でなければその場で押し倒してしまいたいくらい、そそられる肉体である。
「いい女よ☆」
ウィンが言うと、ケーナズは落ち込んだように目をそらした。
 ケーナズの着付けが終わると、ウィンは兄のクローゼットから適当に好みの服を選ばせて貰う。なぜか楽しい。最初ケーナズがシャツとズボンしか見せないので、ウィンは「パンツもー!」と催促すると、ウィンの青いワンピースを着たケーナズは「デリカシーのないヤツ」と呟くように言った。
 ウィンからすれば恥ずかしがっても仕方ないだけなのだ。兄がどんな下着を愛用しているかくらい知っている。それがデザイナーズブランドの派手なビキニパンツであっても今更恥ずかしがる理由があるだろうか。

 とりあえず互いの支度が済んだころ、叔母はリビングダイニングででコーヒーを入れていてくれていた。
 「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
ケーナズは叔母に頭を下げた。
 二人の話を総合したところ、少なくとも原因は飴単体か、あるいは飴+風邪薬によるものだという結論に達した。
「お姉様に電話してみましょうか?」
と叔母が言うと、ケーナズが首を振った。
「お母様に伝えたら絶対に見物しに飛んできそうだ」
この姿を絶対に見られたくないらしい。
「でも、一生このままだったらどうするのよ!」
ウィンが言うと、ケーナズはしかしだなぁとぼやいた。
 結局現実逃避しても仕方がないので、叔母が代表してドイツに電話をすることになった。日本とドイツは8時間時差があるから、深夜たたき起こされた母は超不機嫌なはずである。子供達よりは妹である叔母の方がまだましだと叔母は言う。
 最初、ルクセンブルク家に仕える執事が出て、その後暫くしてから母が出てきた。叔母は電話をスピーカーにしながら、最初牽制するように「送ってきたお菓子変じゃなかった?」と聞いている。不機嫌だったはずの母は「なにかあったの?」と声が弾んでいる。兄妹は顔を見合わせた。分かっていて送ったに違いない。
 叔母はそれを無視して「どこで入手したの?」と聞いた。母は「フランスの蚤の市で買ったのよ」と言っている。
「面白い経験が出来るからぜひって。だから3つ買ってみたわ」
「それでお姉様は試してみたの?」
「まさか。面白そうだからケーナズとウィンに送ってみたのだけど、どうなったの?」
そんな怪しげな物を送ってきたのか、と双子は頭を抱える。
「ええとね、ケーナズに今替わるわ」
叔母はケーナズに出るよう促した。血圧が上昇するのを感じながらケーナズは電話に出た。
「お母様、それが怪しげなドラッグだったらどうするんですか!」
「あら、その声はウィンでしょ?」
電話の母には状況が見えていない。ケーナズはこめかみを押さえながら言う。
「私はケーナズです。あの飴のせいでこうなってしまったんですよ!」
「こうなったって、まさか女に!?」
今のケーナズの声に妙に似た母の驚いたような声が響いた。ウィンも抗議に参加する。
「お母様、私は男になってしまいました!」
「まぁ!」
その「まぁ」には、なぜか困ったわねではなく面白そうという響きが感じられたのはウィンの考えすぎか。
「とにかく困っているんです!!!」
とケーナズ。
「これでは明日出勤できません。せめて、もう1つあれば分析も出来るのですが、この格好では職場に入れてもらえないでしょう」
薬品を扱うケーナズの職場では従業員の厳重な管理がされている。毎日入り口でIDカードと照らし合わせながら本人照合が行われる。たとえ本人であってもIDカードと顔が異なれば入れるはずがない。(諜報員のスキルを使って夜中忍び込めば別だろうが、職場に忍び込まなければならないという状況くらい哀しいものはない)
「私はともかくね」
気楽な学生のウィンと社会人のケーナズでは自ずと反応も異なる。
「とにかく、効果時間とか聞いてないのですか?」
ケーナズは専門家らしく母を問いつめる。母は考え込み、しばらくしてから答えた。
「聞いてないわ。半ば冗談だと思っていたし」
絶句する二人。子供達を実験台にする前に自分で試せと同時に思ったのはさすが双子と言うべきか。
「ま、戻らなかったらそれはそれで何とかなるでしょう」
ころころと笑う母。思わず殺意が芽生え、拳を握りしめる二人。
「お姉様! 冗談はいい加減にして下さいな。二人は本当に困っているのですよ」
叔母も呆れたように加勢する。昔から姉に振り回されてきた不憫な人なのである。
「とにかく今日一日は様子を見て、明日以降も変化がないようなら、責任取って貰いますからね」
責任というのはこの場合、飴の製造元を探し出して何とかしろということである。
「分かったわ。状況に変化があったらいつでも良いから連絡してちょうだいな」
こんな状況ですらどこか呑気な母である。むしろ楽しんでいるのだろう。電話を切る前にこんなことを叔母にこっそり頼んでいたからである。
「二人の写真、デジカメで撮ってメールで送ってね」

 いつもと違って妙に脳天気なエリザベートとの会話にぐったりした三人は今後のことについて話し合うことにした。
「私は暫くなんとかなると思うわ。気楽な学生だし」
とウィン。レポートは桐生教授にメールで送ればよい。彼ならこんなバカバカしい事情も絶対理解してくれるだろう。他の講義もこれまで真面目に出席してきたのだから、多少欠席しても単位には影響ないはずだ。
 だが問題はケーナズである。彼は優秀な研究員だった。無断欠勤などしたこともなく、周囲からの評判は上々である。この若さで新しいプロジェクトの主任となり、前途洋々の筈だった。親会社はドイツ法人だから性転換にも寛容かも知れないが、ケーナズはバイセクシャルであっても性同一性障害という訳ではない。
「とにかく明日は病欠にするつもりだが、それ以降のことは……」
力無くソファにもたれかかるケーナズ。薬で性転換など不可能だから、これは一種の魔法なのだろう。純粋な薬であれば彼の専門分野だが、魔法は門外漢だ。魔法使いの知り合いはいない……はずだ(自信はなかった。もしかしたら密かにいるのかもしれない)。もしかしたら草間興信所か月刊アトラス編集部のお世話になるかも知れない。この格好で興信所を訪問したら草間はどんな顔をするだろうか。
「くよくよしたって仕方ないわ。少し気晴らししましょうよ、お兄様」
ウィンは兄を慰めるつもりでそう言ったが、この状態で「お兄様」というのは奇妙な気もした。だからといって「お姉様」と言ったらさらに落ち込ませるだけだろう。
「ああ……」
元気のない返事が返ってくる。こういうときは下手に励まさない方が懸命である。
「私はちょっと外にでも出てこようかなー。ね、叔母様も、いったんお仕事に行った方が良いと思うわ」
ウィンは立ち上がって伸びをした。普段なら可愛らしい仕草だが、長身で体格の良い「男」がそれをするとやはりおかまくささが漂ってしまうのは仕方がない。
「じゃ、私行くわね。あ、その前に洋服の予備、借りていくから」
「好きなのを持っていけ」
明らかに落ち込んだ口調なので、さすがにウィンも兄のことが気の毒になった。女になったことがそんなにショックだったのかしら? 私は結構楽しんでるけど……。
 ウィンは兄の心は許可がない限り絶対に読まないことにしている。こんなときこそ、気持ちを共有しても良いのかも知れないが、兄がそうしてくれと望まない限りは絶対にしない。それが兄妹の鉄の掟だ。
 ウィンが兄の服の中でもとびきり上質な物を選んで旅行鞄に詰め、「じゃ」と出て行こうとしたとき、ケーナズがこう言った。
「お前、出かけるならそのしゃべり方意識的に直した方が良いぞ。はっきり言って気持ちが悪い」
普段なら激怒しただろう。だが、ウィンはにっと笑って
「忠告感謝するわ、じゃなくて、忠告感謝するよ、お姉様」
と言い残して、叔母と共に大股で六本木のマンションを後にしたのだった。

 取り残されたケーナズは、コーヒーメーカーに残っていたコーヒーを飲みながら、落ち着いて考えようとした。だが、慣れないブラジャーが胸を締め付けているような気がして息苦しい。女性はこんな拘束具のようなものを始終身につけているのかと思うと同情してしまった。他人よりもグラマラスなウィンが胸のサイズで愚痴っていたのが、今は何となく理解できる。恐々と胸に触ってみるが、ふにゃふにゃして変な気分だった。男として女性の胸は好きだったが、自分にそれが備わってもちっとも嬉しくない。スカートもすーすーして不安感を覚える。女性のスタイルは基本的に無防備なんだなと改めて思う。今は外出するつもりもないから良いようなものの、ハイヒールを履けと言われたら、拷問にでもあった気分になるだろう。
 要するに女性の姿でいると言うことはケーナズにとって不安で仕方がないのだ。女性化したことで筋力が落ち、今まで平気で持てた物を重たく感じる。なぜか身長も縮んでしまったらしく、目線も変わった。自分に対して抱いていた自信を奪われてしまったような気がして、ウィンのように前向きにはなれなかったのだ。
「やれやれ」
だらしなくテーブルに足を乗せてみる。スカートが激しくまくれ上がり白いセクシーな太股が露出する。ウィンも気が利かないヤツだ。ワンピースではなくパンツを持ってきてくれれば良かったのにと八つ当たり気味なことを考えてみるが、ウィンは女性化した兄のサイズが分からない以上、無難なワンピースを選んだだけだった。しかし、ウィンのバスルームでのなまめかしい視線には内心焦った。ウィンは気が付いていないようだが、非常にいい男に変化していた。リビングに叔母がいなくて、あれが実の「妹」でなければ思わず迫っていたことだろう。
 いっそふて寝でもしようか。ケーナズがそう思ったときのことである。インターホンが1回鳴った。誰かがマンションの階下に来ているらしい。無視しようかとも思ったが、出ることに決めた。普段はお手伝いさんが留守を守っているから、女性が出ても不思議ではないはずだ。
インターホンをとると明るい声が聞こえてきた。
「透だけど☆」
このとき思い出した。今日午後透がCSのスポーツ中継を見に来る約束になっていたのだ。ケーナズ一生の不覚である。日曜にはお手伝いさんが来ないことは透も知っている。インターホンを取ってしまった以上、いったいどうやって誤魔化せばよいのだろう。とりあえず何も答えずにオートロックを解除した。しばらくしてから玄関がノックされる。ケーナズはしぶしぶ立ち上がり、透を出迎えることにした。

 ケーナズを見たとき、透は部屋を間違えたと思ったようだった。
「し、失礼しました!」
「おい、待て、私だ!」 
思わずいつも通りの言葉遣いをしてしまう。背を向けていた透はくるりと振り返った。その表情は妙に輝いている。
「もしかしてケーナズ? っていうか、ケーナズってもしかして本当は女だったの?」
この前、一緒に温泉に入ったばかりだろうが、という言葉を飲み込み、ケーナズは偉そうな口調でこう答える。
「朝起きたらこうなっていた。何か文句あるか?」
文句はないだろう。透は目の前の美女に目がくらんで、細かいことに突っ込む余裕すらないようだった。
「前からケーナズが女になったら絶対いい女になると思っていたんだけど、オレの予想は間違ってなかったね!」
興奮しまくっている。
「ね、ね、デートしよっ! それともご飯作ってあげよっか?」
「外には出たくない。それよりも食事を作ってもらえると助かるな」
作ってもらうのが当然という口調だった。普段なら週末は冷蔵庫に入っている物を適当に調理するか、あるいは外食するかだったが、考えてみればこの騒動で今日は朝から何も食べていなかった。
 女性にならいくらでも尽くしてくれる透は嬉々としてキッチンに向かっている。元が男でも良いのか? ケーナズは突っ込みたくなったが、作ってくれる人間に文句など言えない。だが表面上は透が食事を作るのは当然という顔をして、ケーナズは足を組んでソファにもたれかかっていた。
 しばらくしてから、食欲をそそる美味しそうな食事がテーブルにずらりと並べられた。和食は嫌いではない。炊飯器はないのだが、工夫をすれば電子レンジでもご飯は炊けるらしく、さっき近所のスーパーにひとっ走りしてきた透がコメを少量と適当な材料を買ってきたのだ。(だがケーナズは納豆の存在だけは完璧に無視した。)
 「どんどん食べて☆」
透の嬉しそうな顔に、内心ケーナズは複雑な心境になった。しかし、腹が減っては戦が出来ぬとも言う。遠慮なく食べることにする。
 透はあまりお腹がすいていないのか、ほとんど手を付けずにケーナズの横顔ばかり見ている。
「あのなぁ……じっと見られていると食べにくいのだが」
ケーナズが言うと、透はにまっと笑った。
「オレのことはいないと思って良いよ、全然気にしないで」
「気になる!」
ケーナズは憮然として言う。
「あっちでTVでも見てろ!」
「あー、本当にケーナズだ☆ 男言葉もりりしいお姉様って感じで素敵〜〜〜(はぁと)。なんかさー、男装してオスカル様とかやったらすっごく様になると思うよ」
これでさらに男装したら、もう訳分からん、とケーナズは心の中でのみ突っ込みを入れる。もっとも、動きやすくはなるだろうが。このままの状態が続く様ならちょっとは考えよう、こっそりそう思った。

 透のどうでも良いおしゃべりを適当にあしらいつつ食事を終えたケーナズは、再びリビングのソファに座った。
「ねぇねぇ、どうして女になっちゃったの?」
透ははしゃいでいる。人の気も知らないで、と腹立たしくなるものの、この姿を見られてしまった以上事情を隠しても仕方ないと思い直し、不思議な飴の話をした。すると、透はこんな事を言った。
「じゃあ、その飴をもう1つ食べれば戻れるよね?」
そうかもしれない。だが、飴は残り1つしかないのだ。ウィンと飴を巡って壮絶な兄妹喧嘩をするのは気が進まなかった。兄妹喧嘩はもう勘弁である。もっとも、ウィンは男であることに適応できるだけのバイタリティの持ち主ではあったが。最悪、母から飴を回収して成分分析ということになるだろう。そんなことを考えているとケーナズはますます落ち込むのだった。
 暗い表情のケーナズを見て、透が励まそうと思ったのか、こんな事を言う。
「元気出してよ、なんか気晴らしでもしようか?」
 このとき透の頭にあったのは、最近ケーナズが透にさんざん吹き込まれて買ったPS2のグランツーリズモだったと思われる。二人はいつも白熱のバトルを繰り広げていた。しかし、ネガティブ思考のどん底にあったケーナズが思いついたのは全然別なことだったのである。
 ケーナズは透の整った顔を見つめた。前々から顔は好みだと思っていたのだ。アイ○ルのCMに出てくるチワワ犬のような人を信じ切ったつぶらな瞳。飼ってみたい。そう不謹慎なことを思ったこともある。透が女性至上主義者でなければ、口八丁手八丁で籠絡していただろう。ノンケには手を出さないというポリシーはあったが、相手がノンケから転向してくれればポリシーは傷つかない。だが、根本的に天然ボケすぎて、ケーナズの口説きに一度も気が付いた試しはない。あまりに鈍すぎる為、最近は透はこういう生き物なのだと半ば諦めていた。だがある意味今はチャンスかもしれない。今自分は透の大好きな女性体となっている。透を物にするなら今だ。
 普段のケーナズならこんなことは考えなかっただろう。だが、自分で意識している以上にケーナズは混乱し、やけっぱちになっていたのである。

 ケーナズは透に手を伸ばして、その頬に触れた。
「気晴らし、そうだな、私はキミが欲しいよ、透」
透は反射的に身をそらした。
「だめだってば! そういうことは愛の告白をちゃんとしてからやるんだよ!」
ケーナズはずっこけそうになった。ケーナズが本当は男だからダメなのではなく、相思相愛になっていないからダメだというのか。なら、とケーナズの口元に笑みが浮かんだ。
「じゃあ、言い直そう。透、私はキミが好きだ。だからキミに私の処女を捧げてやる」
ケーナズが透を好きなのは事実だ。ステディになるかどうかはともかく。また、確かにケーナズ(♀)は「処女」だと言えた。透は口をぱくぱくさせ、叫んだ。
「しょ、しょ、しょ、しょ、処女ーーーーー!?」
処女というのは多くの男のロマンだ。つまり自分が初めての男になるということだから。(余談だがケーナズには処女信仰はない。透はどうだろう)
「透は私のことが嫌いか?」
ケーナズは更にそう言いながら、透の膝の間に割り込んでくる。その扇情的なまなざしに、透は目を白黒させた。目の前の人間はケーナズだということは認識しているつもりだったが、あまりにも色っぽく迫られたことで、透の理性はスパークし、半ば崩壊していた。
「嫌いじゃないよー、嫌いな訳無いじゃないか〜〜〜」
ケーナズの誘導尋問にあっさり引っかかる透。ケーナズは勝利の笑みを浮かべた。
「じゃあ、双方の合意に基づいているという訳だ。なら問題ないだろう?」
その好きはfreundlich seinであってliebenではないということはケーナズは知っていた。でもこのとき日本語というものは便利だとしみじみ思う。
「へっ?」
透はケーナズの強引な論法に目をぱちくりさせたが、その間にケーナズは透をソファに押し倒していた。透も抵抗すれば出来たのかもしれないが、この状況にすっかり流されてしまっている。
「透、かわいいよ……」
やる気満々なケーナズは甘く囁き、透の唇を奪おうとした。

 そのとき。電話が鳴り始めた。ウィンか叔母からかもしれないと思うと、無視も出来ない。ケーナズは渋々立ち上がった。透は逃げることも出来たはずだが、惚けた様にソファに寝ころび、天井を見つめている。
 ケーナズは電話を取った。
「私○○不動産の××と申します。都内のワンルームマンションを使った有利な資産運用についてお電話させて頂きました」
なんのことはない営業の電話である。ケーナズは一言「ご親切にありがとう。だが私は日本円にして30億円相当の資産を持っていて、専属のアドバイザーもいるからキミのアドバイスは必要ないな」と答えてがちゃっと切ってしまった。きっと営業マンはケーナズの言葉を冗談だと思ったのだろう。だが、これはあいにく事実だった。
 ぷりぷりしながらリビングに戻っていったケーナズだったが、放心状態の透がそのままの体勢でいることに満足感を覚えた。
「さ、続きだ」
そう言いながらケーナズは透に覆い被さり今度こそその唇を奪おうとした。今度は携帯が鳴った。無視したかったのだが、その着メロは身内専用だった。つまり今度こそ間違いなくウィンかアレックス叔母ということになる。
 ケーナズは仕方なくテーブルの上に手を伸ばし、そのまま電話を取った。
「もしもし」
「お兄様、少しは元気になった?」
ウィンだった。やたら声がはしゃいでいる。
「私ね、女の子にナンパされて、今食事中」
周囲ががやがやしているので、外からかけているのは分かったが、男の声で女言葉を使うなとか言いたくなる。電話だとかなり不気味だった。ドイツ語でしゃべっているからどうせ周囲には分からないだろうと安心しているのだろう。
「そうか、良かったな。だが私今も取り込み中なんだ。後で電話する」
「何してるの?」
「言えないな」
ケーナズは意味深に笑った。
「ふーん、ま、とりあえず元気になったみたいだから良かった。じゃ、またね」
電話は切れた。

 邪魔は入ったが、透は観念した様にケーナズをじっと見つめている。いや、正確に言うと、見つめているのはケーナズの露出した太股の方だった。スカートに慣れていないせいか、派手にまくれあがって、美しい白い足がむき出しになっている。見つめていると言うよりも釘付けだったというのが正解かもしれない。
「ケーナズ、きれいだ……」 
透がぽやんとした表情でつぶやいた。
「オレで本当に良いの? なんだか申し訳ないような気がするんだけど。それになんだか恥ずかしいよーーー」
この場に及んでじたばたする透。
透の脳みそには霧がかかって、自分にのし掛かっている人間が本当は男だという事実すらどうでも良くなっているらしかった。ケーナズは偉そうに頷く。
「ああ、もちろんだ」
会話を文字だけで描写するとやはり男同士の会話なのだが。
「透、キミが欲しい」
ケーナズはそう言いながら、三度目の正直と言わんばかりに透に顔を近づけた。
 そのときだった。ケーナズは本当に唐突な眠気に襲われたのだ。まるで睡眠薬になれていない人間が、強力な睡眠薬を飲んだような感じである。この眠気には記憶があった。昨日飴をなめた後にきた眠気だ。もしや……。
 ケーナズはとぎれそうになる意識をなんとか保ちながら、懸命に考えた。このまま眠ってしまって元の身体に戻ってしまったらかなり悲惨な状況になる。透にその姿は死んでも見られたくない。じゃあ、どうする?
 ケーナズはシンプルかつ鬼のような決断を下した。拳で透のみぞおちを殴りつけ気絶させたのだった。
「すまん!」
謝りながら、自らは眠気を堪えながら、服を脱ぎ捨てバスローブに着替え、そこで力尽きた。

 それから数時間後、ケーナズは目が覚めた。思った通りだ。元通りに戻っている。特に体調の異常もない。問題は透だが…。気の毒にもソファで気絶し続けていた。
「悪かった……」
呟く様に謝り、その髪をそっとなでるケーナズ。

 意識を取り戻した透は、元通りになったケーナズを見て、泣きそうな顔になった。
「ひどいよー、殴るなんて」
「なんのことだ?」
すっとぼけるケーナズ。
「キミはここでずっと寝ていたんだぞ」
「またまたそんなこと言ってー。女になったケーナズがオレのこと押し倒したくせに、いきなり殴りつけたんじゃないかー」
鬼ーとなじる透。
「女? 押し倒し? 夢でも見たんじゃないか?」
「夢じゃないよ。ケーナズ、オレのこと好きだって言ってくれたじゃないか」
「私はもちろん透のことは好きだとも」
話を微妙にそらすケーナズ。女性化したことはなかったことにするつもりだった。
「ウソつきー!!!」
透はだだっ子の様に口をとがらせた。
「オレは絶対に見たんだ〜〜〜!!!」
「証拠は?」
当然証拠などない。ウィンから借りた衣装は透の目に届かないところに隠してしまった。
 うっ、と押し黙る透。あまりにも自信たっぷりなケーナズの様子に自分の記憶の方を疑い始めたのだ。
「あれ夢だったのかなぁ……おかしいなぁ……」
「夢を見たんだ、きっと。だいぶ長いこと寝ていたからな」
こうして透はケーナズにすっかり言いくるめられてしまったのである。

 さて、一方のウィンだったが、男性化した自分の身体に興味津々だった。一昔前のロック歌手とか思ったが、ケーナズから借りたイタリア製の高級スーツに身を包んでみると、かなりいけていることに気が付いた。鏡で自分の姿に見ほれる。
「うん、いい男☆」
 叔母とは別れた後、六本木の町をぶらぶらすることにした。女性達の視線が自分に釘付けになっているのがある種快感である。本来背が高くスタイルも良い美女であるウィンは男達から注目されることは慣れていた。だが女性からあこがれのまなざしで見つめられるという経験はなかなかないので、気分が良かった。
 しばらく歩いていると、きれいな日本人女性が英語で声をかけてきた。
「ハーイ、素敵なお兄さん、今お暇?」
明らかなナンパである。この界隈には、外人専門とでも言うのだろうか、こういう女性が多いことをウィンは知っていた。ウィンはどうしようかと迷ったが、幸い彼女は好みの顔をしている。
「日本語で大丈夫だ。ああ、暇だよ」
兄の話し方になるべく近づこうとする。女言葉を使わないように気を遣うのだけは面倒そうだったが。
 女性の顔がぱっと輝いた。ナンパ成功とでも思っているのだろう。心などあえて読まなくても、彼女の心は透けるように見えた。ウィンはこのときとばかりに図々しく彼女の腰に手を回し、洒落たオープンカフェに行くことに決める。

 色々尋ねられたので、適当に兄ケーナズに成り済ますことにする。六本木のマンションに住み、高級外車を乗り回し、実家はヨーロッパの古城だなんて話、ものすごく嘘くさいとウィン自体思う。目の前の彼女だって嘘だと思っているのかもしれない。彼女も、世田谷の高級住宅街に住むお嬢様で有名女子大に通っていると言っていたが、それもどこまで真実なのか怪しい。でも、これがナンパだと互いに割り切っていればそれでも良いと思った。彼女はナンパになれているらしく、話も上手だった。暇つぶしには丁度良い。
 しばらくオープンテラスでしゃべっていたのだが、彼女が行きつけのフレンチレストランに行きたい(この場合当然ウィンの奢りとなる)とおねだりし始めた。普段はケーナズと違って学生らしい質素な生活を送っているウィンはちょっと考えたが、今日は特別だ、そのくらい贅沢しても許されるだろうと思い、自分の手持ちの現金ではなくクレジットカード(母の家族カードなので引き落としは母の口座)決済にすることにした。こういう姿になったのも母のせいなのだから、そのくらいはやっても当然だそう考えたら気が楽になった。
 彼女のお薦めのフレンチレストラン――思った程は高くなかった――に行ってから、兄のことを思い出し、携帯で電話をかけた。妙に元気そうな兄の声に怪しいと思ったものの、落ち込まれているよりは良いと思った。
 食事はまずまずで、ウィンは概ね満足だった。女の子はアルコールが入ったせいか、目がとろんとし始めている。こういうとき、車で家まで送ってやるのが紳士だろうと思ったが、あいにくウィンは車は持っていなかった。免許は持っているので叔母の車を借りるとしても、お台場まで行くのはバカバカしい。
「そろそろ出ようか」
そう言って、伝票を握りしめ立ち上がったウィンに、女の子がこう言った。
「ねぇ、私今日、帰りたくないの」
それを聞いた瞬間ウィンはやばい! と思った。彼女は六本木のマンションに招かれる自分を思い描いているのだろう。嘘を付くんじゃなかったと思ったが、後の祭りである。
「いや……私は明日仕事があって……」
ごにょごにょと言い訳をするウィン。だが女の子は猛然と抗議し始めた。
「そのつもりがあったから誘ったんでしょ?」
誘ってきたのはそっちの方だと思ったが、敢えて突っ込みは入れなかった。とりあえず店でケンカをするのはまずいと思い、まあまあとなだめつつ会計を済ませ店の外に出る。
 とりあえず食事するだけじゃダメなのか〜?とウィンは憂鬱になる。確かに彼女は好みの女性だったし、ミーハーだが、会話もはずんで楽しかった。だが、それ以上のこととなると考えてしまう。ケーナズと違ってウィンはそれなりに貞操観念のある人間だった。
「また今度にしてくれるか?」
そう言うと、女の子は拗ねた。
「あー、分かった、六本木のマンションなんてウソなんでしょ!」
「ウソじゃない!」
ついつい言ってから後悔するウィン。正直に認めれば良かった。ウソをつき始めると、それを誤魔化す為にどんどんウソを付く羽目になる。ウィンはウソの泥沼から脱出すべく深く息をついた。
「……だけど、本当はそれは兄のもので、私はただの居候なんだ……。ごめん、確かにウソだな」
「信じられない!」
「すまない」
ウィンは頭を下げた。女の子はきっとウィンをにらみつけた。
「クレジットカードがプラチナだったの見たんだから! 本当はすごいお金持ちのくせに! 要は私じゃ不満だって事でしょ!」
(そういう訳ではないのだけど…)
ウィンは心の中で呟いた。ナンパを気楽に考えていたウィンが悪かっただけなのだ。実際は気楽――というか安直なものなのだが、ウィンのような根が真面目な人間には向いていないと言うことだ。
「とりあえず、タクシー代は私が払うから」
そう言ったが、女の子は「結構ですぅ。あんたってさいてー」と捨てぜりふを残し、ブランド物のバッグをぶらぶらさせながら再び六本木の街へ消えていった。
 その後ろ姿を見送りながら、ウィンは心が痛むのを覚えた。ステディがいないとき、ケーナズがしょっちゅうナンパをしてはその場限りのアバンチュールを求めていたことは知っていたが、こんなに疲れることだとは夢にも思わなかった。神経すり減らしながら遊ぶなんて芸当、ウィンには出来ない。遊び人ぶるのは所詮無理らしい。
「もう、帰ろう」
自分に言い聞かせるように呟くと、ウィンは都営大江戸線の駅に向かったのだった。

 翌朝目覚めたとき、ウィンは女に戻っていた。
 元に戻ったウィンは、早速ケーナズの所に電話をした。出たのは聞き覚えのある男の声。
「無事に戻ったのね!」
「ああ……これで仕事に行ける。ところで、おまえ、昨日のナンパどうした?」
「振られたわ」
そういうことにしておこう。
「残念だったな」
言葉とは裏腹に楽しそうな兄の口調。ウィンはむっとして言い返す。
「そっちこそ、取り込み中って何してたのよー?」
「あれは無かったことにした」
「意味不明!」
 とりあえず二人無事に戻ったと言うことが確認され、ルクセンブルク兄妹の生活は日常に戻ったのだった。とはいうものの、母に振り回された格好となった二人はこのままでは腹が納まらない。

 まずケーナズの場合。
「お母様! このまま戻らなかったら私は職を失っていました」
「あら、どうしてかしら? 性転換したってことにすれば良いじゃないの。それがイヤなら家に戻ってくれば良いことよ」
「他人事だと思って! 性転換して身長まで縮みますか?」
「なるほど、身長が変わるのね?」
エリザベートはあくまで面白がっている。このときケーナズは思い出した。
「お母様! 確か3つ買ったと仰ってましたね!」
「そうよ、あなた達と私の分」
「あなたという人は……」
ケーナズは二の句が継げなかった。

 次にウィンの場合。ウィンが話し出す前に、エリザベートは矢継ぎ早に質問し始めた。
「ね、男になるってどんな気分かしら?」
「あの……お母様?」
「ケーナズが身長縮んだって言ってたけど、あなたはやっぱり伸びたの?」
「そんなこと聞いてどうするんですか!?」
そう言ってからウィンは頭の中で単純な引き算をして、顔面蒼白となる。
「お母様ー、それ使うつもりですねーーー?」
「そうよ、何か問題でも?」
しらっと言っているが、問題大ありよ、とウィンは思い要求する。
「今すぐテレーゼと電話を替わって下さい!」
「ダメ☆ ちなみにね、聞いてないと思うけど、明日は二人とも一日オフなのよ♪♪♪」
いたずらっ子の様な母のはしゃいだ声。ウィンは頭を抱えた。かわいそうなテレーゼ……。
 結局、この一件で双子の母が一番とんでもない人間だということが証明されただけだった。

 余談だが、アレックスがこっそり写真付き携帯で取った二人のデジタル写真が後日ドイツにメールで送られ、子供達の姿を見たエリザベートがにんまりしたのを付け加えておく。
「二人とも思った通りの美男美女☆ やっぱり、ケーナズは私似でウィンが父親似だったわねー」
二人の姿は加工され、エリザベートのプライベートなパソコンの壁紙になっていた。
 その後あの飴がどのように処分されたのか知るものは、この世でたった二人きりである。

- The End -


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