初恋


 13才のケーナズ・ルクセンブルクには父がいない。より正確に言うと父が誰だか分からないのだ。戸籍を見ても父の名前は記載されていない。俗に言えば「私生児」ということになるだろうか。
 その代わり「母」は二人いる。生みの母エリザベート・ルクセンブルクと、その母のパートナー、テレーゼと。別に生みの母のエリザが産みっぱなしで子育てを放棄しているというわけではない。むしろ、エリザは人一倍ケーナズとその双子の妹ウィンを愛情を込めて、かつ厳しく育てた。
 シングルマザーの道を選び、なおかつレズビアンの恋人テレーゼをパートナーとして公言するという生き方は、たとえ現代ドイツであっても田舎では決して簡単に受け入れられるものではなかった。上流階級のゴシップを専門に扱う雑誌ではエリザは常にスキャンダルの女王という扱いだったし、ルクセンブルク家の親族からもさんざん非難されたという話はケーナズも知っている。だが、数年前両親が交通事故死したことでルクセンブルク家の家督を継いだエリザはホテル経営に辣腕を振るい、父が経営者だった頃よりもさらに地元の為に貢献したことで評判を上げた。
 エリザは決して言い訳などしなかった。己の生き方が世間の常識に反することは十分承知していたからだ。その代わり黙々と実績を上げることで、世間に自分のやり方をアピールし認めさせた。だが、ゴシップ記事が子供達やテレーゼのことを扱うことは絶対に許さなかったらしい。エリザは己を盾として愛する者達を守ってきた。通常の人間がこのような生き方をしたら世間の圧力に屈していたかも知れないが、エリザは人一倍強い女だった。決して妥協せず、自分の信念を貫き通している。ケーナズはそんな母を心から尊敬していた。
 一方、パートナーであるテレーゼは、エリザとの関係を認めることで世界的なピアニストである実の父から勘当された。そのためピアニストとして公の活動をする時の芸名はテレーゼとしか名乗らない。法的にはエリザの父ヴィルヘルムの養子となっていて、そのことはエリザの妹アレキサンドラとマルガレーテからも承諾は得てある。二人とも家に縛られることを望まず、それぞれ独立している。アレキサンドラは日本で声楽家として活躍しているし、マルガレーテは地元のバーデン・ヴュルテンベルク州で政治家としての活動を始めている。
 エリザほど強くないテレーゼは、勘当されたことでしばらく苦しんだ。たとえ同性愛に寛容なドイツでも、全ての人がそれを認める訳ではない。音楽業界や社交界での口さがのない陰口に涙したこともある。だが、結果的にその辛い経験がテレーゼのピアノに磨きを掛けた。今では父を越えるほどの存在に成長したと言われている。

 エリザが双子にとって厳しい「父」のような存在だったとすれば、テレーゼは優しい「母」のような存在だった。演奏旅行のとき以外は、ホテル兼自宅の古城に設けられた豪華なピアノ室にこもってひたむきに練習をしているか、地元の才能ある子供達を集めてピアノを教えているかしているが、それが終われば時間の許す限り双子の相手をしてくれた。
 双子はエリザがテレーゼに断りなく勝手に生んだ子供達であるが、テレーゼは子供達の存在を自然に受け入れていた。葛藤がなかった訳ではないだろう。だが、女同士では子供が出来ないのは事実であり、(特権はないとはいえ)貴族の長女であるエリザが跡継ぎを生むことが期待されていることは知っていた。文化遺産でもある先祖代々伝わる古城という固定資産が、遺産相続の結果分割されてしまうことは決して望ましいことではない。
 エリザ自身は財産継承のことを考えて子供を身ごもった訳ではないが、娘の奔放な性癖を知る両親は黙ってその事実を受け入れた。何処の馬の骨とも分からない男が子供達の父親としてしゃしゃり出るよりは、認知してもらわない方が面倒ではないと思ったからなのだろう。(両親が悟るまでには色々な経緯があるのだが、それは別な話である)
 だが、当事者である子供達――特にケーナズは認知もしない、当然養育費も払わない生物学上の父親に対して強い反発を抱いていた。計画性もなく妊娠した母に今更怒りをぶつけても仕方がない。もしこのとき妊娠しなかったとしてもいずれ人工授精による出産を行っただけ、私はお前達を産んだことを絶対に後悔していないし、誰よりも愛していると言われてしまったのだから。子供がいらなければ堕胎すれば良いだけと理解しているケーナズは、母の言葉に偽りがあるとは思えなかった。従ってケーナズとしては怒りの対象を顔も名も知らない生物学上の父親に変えるしかなかった。いくら母が「行きずり」の相手だったにしろ自分たちが生まれていることは生物学上の父だって知っているはずだ。なのに知らんぷりというのが許せなかったのである。
 だが、妹のウィンはさほど父親に対して頓着していなかった。母であるエリザがいて、優しいテレーゼがいれば十分だと言う。「世の中には両親のいない子だっているのよ? 私達は十分すぎるほど恵まれているわ」そう言われたらケーナズだって反論するのは難しい。だが、無責任な父に対する怒りをどうしても消すことは出来なかった。なぜなのだろう。理由が分かればケーナズも悩まない。
 13才という思春期真っ最中のケーナズにとって、父の問題はとても重要だったのだが、母がいっさい父について語らない以上、悶々と悩み続けるしかなかった。もしかしたら、夏休みの休暇に入る前にギムナジウムで意地悪な誰かが、これ見よがしにケーナズの机の上に置いたゴシップ雑誌を読んでしまったの原因なのかも知れない。面白可笑しく母について書かれた記事を見て、読むのではなかったと激しく後悔したものの、ケーナズにできたことはその雑誌をびりびりに引き裂くことだけだった。サイコメトリーの能力を持つウィンならその雑誌を置いた犯人を突き止めることも出来ただろうが、ケーナズは妹にそんなおぞましい雑誌を見せることはできなかった。

 そんな状態で夏休みに入ったものだから、ケーナズの機嫌はえらく悪かった。荒れていると言っても過言ではない。とはいえ、母にだけは八つ当たりをしたくなかったので、被害者は一番身近にいる妹のウィンと言うことになる。
 幼い時から二人でテニスを習っていたので、毎日二人は自宅のテニスコートで練習をするのだが、どうしても男であるケーナズの方が強い。普段は加減をしてプレイしているものの、今は加減する心の余裕がなかった。
 渾身の力を込めたサーブがウィンのラケットに当たり、ウィンはラケットをぽろりと落とす。
「お兄様の意地悪!」
ウィンはしびれる右腕をさすりながら、兄に抗議する。
「私に何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさいよ!」
「別に……」
ケーナズはそっぽを向いた。ウィンが悪い訳ではない。十分すぎるほど分かっている。本当は自分の心をウィンに伝えたかった。だが、そうしたらテレパスであるウィンは自分以上に苦しむ。許可なしに互いの心は絶対に読まないと言うのが兄妹の鉄の掟。ウィンはその掟を忠実に守ってくれる。
「今日はもう止めよう。やる気が削がれた」
身勝手な言葉を残し、ケーナズはテニスコートを立ち去った。憤慨するウィンを残して。

 自己嫌悪を抱きながらケーナズは広大な自宅の庭をふらふらと歩いた。時たま、ホテルの宿泊客とすれ違うのだが、そのときだけは礼儀正しく挨拶する。完璧な笑顔。だが独りに戻ると、不機嫌そのものの表情となる。滅多に人がやってこない四阿のベンチにだらしなくひっくり返り、ふて寝を始めた。
 しばらくしてから、いきなり鼻をつままれる。
「うわぁーっ!」
不覚を取られたことが悔しくて、犯人の方を向いてきっと睨みつけた。
「何するんだ!」
犯人はテレーゼだった。白地に小さな花柄のサマードレスを着たテレーゼは母と同い年には見えない。童顔丸顔で、ふわふわとした蜂蜜色の癖毛を背中まで無造作に垂らし、ハシバミ色の優しそうな瞳。背は低く、既にウィンにも抜かされてしまっている。
「こんなところで、さぼってるー」
テレーゼはころころと笑った。
「さっき、ウィンが探していたわよ」
「知るもんか」
反抗期らしいケーナズの仕草に、テレーゼが微笑む。
「喧嘩したんでしょ」
「別に……」
「素直じゃないのね」
「違う!」
ケーナズは思わず大きな声を上げてしまった。テレーゼは目を丸くした。そして、ケーナズの様子がいつもと違うのに気が付き、ベンチの隣に座る。
「悩み事でもあるんじゃない? 良かったら聞くわ」
ケーナズは起きあがり、テレーゼの横顔を見つめた。いつも優しいテレーゼ。だけど、テレーゼに生物学上の父のことで悩んでいると言うのは躊躇われた。母はテレーゼとつき合いながら、一方で何処の誰とも分からない男とも関係を結んでいたのだから。(今でもテレーゼが演奏旅行で留守の時はこっそりと浮気をしているらしい)
 だが、テレーゼはケーナズの心を読んだようにこう言った。
「私には遠慮しなくて良いのよ? 何を聞いても驚かないわ」
ケーナズは目を伏せた。大人びた顔が年相応の表情を浮かべている。さんざん迷った末口を開くことにした。
 話を聞き終わった後テレーゼは、いつもと同じようにケーナズの頭をそっと抱き寄せた。
「貴方の悩みは当然よ、ケーナズ。こんなこと割り切れるものじゃないから」
テレーゼの愛用しているコロンの柔らかい香りがほんのり香ってくる。嗅ぎ慣れている香りの筈なのに、なぜか目眩がした。
「無理して今解決する必要はないわ。ただ……ウィンに八つ当たりするのだけは止めましょうね……」
テレーゼの声は続いている。なのに、ケーナズは半ば夢見心地だった。
「ケーナズ!?」
呆れたようなテレーゼの声ではっと我に返る。
「真面目な話をしているのに、ぼーっとしないで!」
「ごめんなさい!」
ケーナズは慌てて立ち上がった。そして、聞いてくれてありがとうと早口で言うと、「用事を思い出した」と言ってそそくさとその場を立ち去ってしまった。

 ケーナズはこのとき、テレーゼの温かく柔らかい女性的な身体を心地よいと感じてしまっていたのだ。今まで「母」だと思っていた人に「女性」を感じてしまった。これは彼にとって罪深い感情だった。母エリザがテレーゼを愛する気持ちを分かってしまった、今はそんな気分。包容力のあるテレーゼは心地よすぎる。テレーゼは自分がケーナズの母親代わりだと思って接してくるからどうしても距離が近い。だが、今はその距離の近さが、ケーナズにとって甘美さと苦痛を伴った。あれ以上側にいたら、理性を失ってテレーゼを抱きしめ唇を奪っていたかも知れない。だがそれは絶対のタブーだ。
 ケーナズはなんとか自室まで辿り着くと、鍵をしっかりと掛け、ベッドにうつぶせに倒れ込んだ。
「テレーゼだけはダメだ!」
自分にそう言い聞かせる。血はいっさいつながっていなくても、テレーゼは「母」なんだ。そう思いこもうとした。なのに、テレーゼを求めている自分がここにいる。抑制がきかない己の欲望が恥ずかしくもあった。理性よりも性欲の方が先走ってしまうなんて自分がとてもだらしがないダメな人間のように思えた。これをすべて性的に奔放な母のせいに転嫁しようと思えば出来た。しかし、それはプライドが許さなかった。
 母はケーナズと同じ年頃に己の性欲を制御できずに、父親――すなわちケーナズの祖父から厳しい罰を受けた。だから双子にもハッキリ言っている。「子供の身分でセックスしたいなら、勝手にしなさい。だけど、その後の尻ぬぐいは自分ですること。ちょっと想像すれば分かると思うけど、責任を取ると言うことは大変な事よ?」要するに、誰かを傷付けたり、妊娠させたり、あるいは病気を貰ってきたとしても、責任はすべて自分で取れ、甘えるなと言うことだ。
 だからケーナズはいい加減なことをしたくない。これまでだって、誰かを抱いてみたいと思ったことはあるし、誘われたこともある。だけど、欲望のままに押し流されてしまうのが怖かったから未だに経験はない。
 テレーゼを性の対象として見てしまった自分が浅ましく思える一方、テレーゼを思う存分愛せる母が羨ましくそして憎らしく思えた。母だって浮気しているのだから、自分だってテレーゼを……そう思ってからまた自己嫌悪に陥る。テレーゼが自分を受け入れるはずがないのは分かっている。無理矢理関係を望んだら彼女を傷付けるだけだ。ケーナズはベッドの上でのたうち回った。

 そんなとき、ドアを遠慮がちにノックする者がいる。ウィンだと言うことは気配で分かった。開けるべきかどうかケーナズは迷う。だが、結局開けた。自分が悪かったことは事実だから。
「お兄様、大丈夫?」
開口一番ウィンが心配そうに発した言葉。ケーナズはそんな妹の優しい言葉を前に、兄としてのプライドががらがらと崩れ落ちていくのを感じた。
 二人はベッドの上に腰掛けた。ウィンは優しく兄の手を取る。昔からこうやって互いの考えていることを言葉を使わずにやり取りしてきた。ケーナズのいっさい整理されていない混乱した思考がウィンに流れていく。ウィンはそれをありのまま自然に受け止めた。こうしている時の二人は境目がない。どこまでがケーナズでどこまでがウィンなのか、互いに分からなくなっている。それは共に生まれてきた双子だけに許された密やかな時間。最近は互いの自我が発達してきて滅多にこれをすることはなくなってきたが、超能力という一般にはない特殊能力を授かってしまった二人には、互いの精神を安定させる為必要な儀式だった。
 ケーナズの想いを我が想いとして体感したウィンは兄を非難することはなかった。
「仕方ないわ。テレーゼは魅力的な人だもの」
と小さく呟く。人一倍賢く美貌を誇る母が敢えて選んだ女性だから。スキャンダルの女王と呼ばれながらも、エリザは社交界の花だった。彼女の元には常に人が集まり、もてはやされ、話題の中心となった。そんなエリザが二十年以上愛し続けた女性テレーゼ。一度会っただけではテレーゼの魅力は分からないだろう。第一印象はせいぜい物静かで内向的で可憐な女性といったところか。だがテレーゼの奏でるピアノは繊細でありながら内に秘められた情熱をほとばしらせ、聞く者を圧倒する。また忍耐強く包容力があって、一歩間違うと過剰防衛に走りかねないエリザの防波堤の役割も果たしている。テレーゼは、エリザはもとより双子にとってなくてはならない存在だった。ケーナズの思慕が恋愛感情に変化したとしても全然不思議ではないとウィンは思った。ウィンもテレーゼは大好きだから。
 一方ケーナズはウィンも恋をしていることに気が付いた。相手は一つ年上で同じテニスクラブに所属している黒髪に黒い瞳のハンサムな少年エーミールだった。年の割には腕の良いケーナズとほぼ同じ力量なので、時々ダブルスを組む相手でもある。ケーナズと気が合い、しばしば一緒に釣りに行ったりサイクリングをしたりして遊んでいる。
「あれ……ウィン……お前……」
ウィンは顔を真っ赤にした。
「道理で熱心にテニスの練習をしていると思った」
「だって……」
ウィンはしどろもどろになりながら一生懸命言い訳しようとする。
「振り向いて欲しくて……だけど彼はお兄様ばっかり見ているし……」
「え?」
ケーナズは掛け値なしに驚いた。今までそんな風に意識したことはなかったからだ。
「でも今年の夏中にアタックするつもりよ。絶対に邪魔しないでね!」
「何故僕が?」
ケーナズは苦笑したが、それが冗談でなくなるのは後々の話である。この時点ではケーナズの頭の中はテレーゼでいっぱいでそれどころではなかった。
 結局この事は二人だけの秘密と言うことになり、ケーナズはなんとかテレーゼのことは忘れて、早く新しい恋を見つけるよう努力してみるということになった。そして辛くなったらすぐウィンに相談すると。

 とはいえ、ケーナズはテレーゼを目で追いかけることだけは止められなかった。母と自然に寄り添い楽しそうにおしゃべりをしているテレーゼ。ピアノを黙々と弾くテレーゼ。気分転換にケーキを作っているテレーゼ。気が付くと、テレーゼの側にいた。見るだけなら罪にはならない、そう自分に言い訳しながら。
 そんな兄の様子に気が付いたウィンは咎めるように兄に言った。
「お兄様は、グレーテル叔母様の家にでも遊びに行って少しテレーゼから離れてみた方が良いんじゃないの?」
「と言っても来月になればテレーゼは演奏旅行、僕達は地中海にヴァカンスに行くんだろ?」
「お兄様が苦しい恋をしていると、私にも感染するのよ!」
ウィンは苛々しながらぼやく。ケーナズは驚いて妹を見た。ウィンは目を伏せる。
 ウィンのためらいがちな話によると、先日ケーナズと心を通い合わせた後遺症なのだろう、自分もテレーゼを見るとドキドキするようになってしまったのだという。これは自分の感情ではなくケーナズの感情だと言い聞かせても、止めることが出来ないそうだ。
「いやなの……私の好きなのはエーミールの筈なのに……」
ウィンはぽろりと涙を流した。
「私、自分がウィンなのかケーナズなのか時々分からなくなってしまう……それが怖いのよ……」
ケーナズは特にそんな経験はしていない。ウィンは共感能力の高いテレパスだからそうなってしまうのだろう。幼い頃はケーナズと同じ夢を頻繁に共有していたそうだ。そういえばあの頃は互いの区別はほとんどなかったかもしれない。でも今は別個の人格を持った、別々の人間。
「ごめん!」
ケーナズは最愛の妹を抱きしめる。もう妹には甘えることは出来ない、そう思った。

 あれこれ考えた結果、一度テレーゼに自分の想いを打ち明け、きちんと振られた方が良いだろうとケーナズは判断した。しばらく気まずくなるかも知れないが、これ以上誰にも迷惑は掛けられない。
 昼間はずっとピアノの練習に打ち込んでいるので、ケーナズは夕食後テレーゼの部屋を訪ねることにした。恐る恐るノックをすると、どうぞ、というテレーゼの明るい声。
 中に入ると、テーブルの上にはたくさんの楽譜が広げられていた。
「散らかっていてゴメンナサイね」
と慌てて片づけ始めるテレーゼ。ケーナズは勧められソファに腰掛けるが、正直居心地は悪い。
 「話があるって、この前の悩み事の続きかしら?」
ハシバミ色のテレーゼの優しい瞳がケーナズに向けられる。ケーナズは目をそらしたいのを懸命に堪え、真っ正面からテレーゼを見つめた。
「違うんだ……僕は……あの……テレーゼのことが好きだから……だけど……それはいけないことで……」
しどろもどろになりながらもなんとか想いを伝えようとする。それを聞くテレーゼの表情は真剣そのものだった。ケーナズの話を黙って耳を傾けた後、穏やかに口を開いた。
「貴方の気持ちはとても嬉しいわ。私はいけないことだとは思わない。でもね、やっぱり私にとって貴方は可愛い息子なの。我が子のように愛することは出来ても、男性を愛するようには愛せないわ」
ケーナズは黙って頷く。聞かなくても分かっていたことだ。今更ショックはない……はずだったが、涙が溢れそうになった。だが絶対に涙を見せたくなかったので、両手を握りしめ、手のひらに爪を食い込ませぐっと堪える。
「き、聞いてくれてありがとう。この事はもう……忘れて下さい……」
なるべく大人っぽく振る舞おうとそう言って、颯爽とその場を立ち去ろうとするが、実際は足下がふらふらして、歩くのもやっとだった。テレーゼの部屋をなんとか出た瞬間気が抜けて、壁に寄りかかってしまった。これで良いんだ、そう自分に言い聞かせたとき、廊下を誰かが歩いてくるのに気が付いた。ほっそりとした背の高いシルエットから、それが母だとすぐ分かる。ケーナズは自分の顔を見られたくなくて、不自然に壁の方を向く。
「ケーナズ?」
母はいぶかしげに息子に声を掛ける。ケーナズは涙の後が残ったみっともない顔を母に向ける羽目になった。母はその顔を見ても表情を変えることはなかった。
「明日出かけることになったから今晩は早く寝なさい」
なぜ泣いていたかを問いただすこともなく、母はいつも通りに振る舞っている。息子のなけなしのプライドを守ってくれたのだろう。ケーナズは、はいと答えると、自室の方によろよろと戻っていった。

 数日後、ケーナズがきちんと振られたことを知ってウィンは兄を労るような表情になった。ケーナズはそんなウィンがこそばゆい。
「言ってすっきりしたよ」
ケーナズは何でもない振りをする。ウィンはそれが兄の精一杯の強がりだということを知っているが、うんと頷く。それから、恥ずかしそうにこっそり打ち明ける。
「今日、エーミールに言うつもり。お兄様がちゃんと言ったんだもの、私も頑張ってみるから」
前向きなウィンを見てケーナズも励まされた気分になったのだが、なぜか同時に対抗意識が芽生えてしまったのだ。
(そう言えば、エーミールは僕のことばかり見ているってウィンは言ってなかったか? これでウィンとエーミールがつき合うことになったらなんか悔しいなぁ……)
なぜ自分がそう思ったのか、ケーナズは分からなかった。だが、妹に負けたくないという気持ちがケーナズを駆り立てる。
 テニスクラブは午後からだ。ケーナズは自転車を飛ばしてエーミールの家に向かう。彼の気持ちを確かめる為に。エーミールがウィンのことが好きなら全然問題ないはずだ。そう自分に言い聞かせながら。これが長年の兄妹喧嘩の勃発だとも知らずに。

- The End -


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