歌の翼に


「──大事な物なんですが、」
 必死で頼み込んだ彼を前に、係りの女性も親身になって困った表情を浮かべていた。
「そうは云われましても、この大きさですと手荷物の規格外になってしまうんですね。どうしても持ち込みたいと仰るのでしたらもう一席分、チケットを購入して頂かなければならないんですが」
「……、」
 彼と係員が揉めているのは、トランクとは別に機内へ持ち込みたいのだが、と申し出たギターのハードケースだった。
 中身も既に提示していて、何の怪しい事も無いのは明白だった。が、規則だと云う。然しこれは本当に大事なものだった。乱暴に扱われて損傷でもあれば、大変な事になる。
 珍しく判断に迷ったまま、彼は台の上のギターケースを見詰めて押し黙っていた。
「──連番の空席が無いか、お調べしましょうか? この便ですと、恐らく変更も可能だと思うんですけど」
「……いや……、」
 生憎、それだけの為に更にもう一席の航空券を購入する余裕を、彼は持ち合わせなかった。自身の貿易会社を設立したとは云え、未だ事業が軌道に乗り出した訳でも無く今回の旅行も、予算的にもスケジュール的にもギリギリだったのだ。
「──分かりました。では、預かりでお願いします」
「畏まりました」
 未だ不安そうな彼に、優しい笑顔を浮かべた係員が「シールを貼らせて頂きますね」と<Flagire>の表記のあるラベルを見せた。
「こちらでしたら大体の中身は現地の職員にも分かりますし、丁寧に扱ってくれるでしょうから」
 お願いします、と重ねて頼み込み、気分を取り直して彼は吸い込まれて行く大事な楽器を見送った。

 ■

「発表会のプログラムがクラシック、っていうのが何というか、ヴィクトリアらしいよね」
 学園祭の案内パンフレットを片手に、葛城・健人は冗談めかして明るい笑い声を上げた。
「らしい、って何ぃ? どういう事ー?」
 彼の傍らで、元気の良い声を張り上げてそう訊ねたのは葛城・ありす、──健人の妹だ。
 名門ヴィクトリア学院。健人は現在21歳で、地元の仙台市から東京の国立大学経営学科に通う為に親元を離れて都内のアパートに暮らしているが、ヴィクトリア学院へスポーツ留学している15歳の妹も同居人だ。
 真面目で、成績が優秀だった為に国公立に大学へ進学出来た事は経済的にも両親への負担を軽減出来る事となったが残念ながら奨学金は出なかった。父親は地方公務員で、母親は家計の助けの為にスーパーマーケットでのパートタイマー勤めまでしている。そうした、親の背中を見て来ただけに健人は、実家を出ている事さえ心苦しく思っている。仕送りだけでは妹と二人、生活出来ないという現実的な問題もあったが、学業の片手間には主に稼ぎの良い肉体労働系や家庭教師のアルバイトに励んでいた。
 今日はヴィクトリア学院の学園祭だった。そうして多忙な生活を送る勤労学生たる健人も、「面白いから、遊びにおいでよ!」という妹の誘いに、たまたまアルバイトの休みが重なった事で息抜きがてら足を運ぶ事にした。一通り祭りの中の学院を見て回った後、現在はホールで行われる発表会を観ようとありすと二人で座席に収まっていた。
「普通、学園祭の舞台なんてギターポップスとか、バンドが出るんじゃないか? ……ビートルズとか、……ローリングストーンズとかさ、」
「だって、軽音部が無いんだもん。……サークルみたいのはあるみたいだけど」
「面白く無いなあ。……だってさ、学園祭じゃないか。お祭りなんだからさ、舞台だってみんなでうわーっと盛り上がれるような……、」
 健人はそう冗談めかした。別に悪意がある訳ではないが、クラシック音楽のスノッブなイメージと、ヴィクトリアが──妹のありすなど、新体操でのスポーツ奨学生でも無ければ到底通学出来ないような──私立の名門校であるという事実から、そんな事を思ったのは仕方無い。健人にとって学園祭とは、気安い友達と羽目を外してバカ騒ぎする遊びの場だった。ステージでは、彼も友人と俄バンドを結成して軽音楽を演奏したりもした。ギターを弾いて歌うのは好きだが、別に音楽教育を受けた訳では無いので、友人達が誉めてくれる程では無いと自分では思う。──歌わなくとも、そのきれいな良く通る声から大体の歌声の良さは想像が付くのだが。
「シッ!」
 ありすが人差し指を口唇の前へ立てた。同時に客席の照明が急激に落とされ、周囲は暗闇になった。そこで健人も慌てて口を噤む。
「始まるよ」

──Auf Flugeln des Gesanges, Herz liebchen, trag' ich dich fort,
  fort nach den Fluren des Ganges, dort weiss ich den schon sten Ort,
  Dort liegt ein rotbluhen der Garten im stillen Mondenschein;
  die Lotosblumen erwarten ihr trautes Schwesterlein,
  die Lotosblumen erwarten ihr trautes Schwesterlein──

「──……、」
 ステージに、ピアノ伴奏を伴って現れたのは一人の女生徒だった。日本人では無いらしい、ふわりと肩に広がった豊かなウェーヴの髪は銀髪で、拍手の中、緊張よりは初々しい恥じらいの見える微笑を浮かべて礼から顔を上げた端正な白い貌に輝いた瞳の色は透き通るようなアイスブルーだった。
 歌の翼に、この想いを乗せてあなたを連れて行けたら──未だ骨格の成長し切っていない、少女らしい硬質な声が涼しい。厭味の無いソプラノで少女が歌い出した途端、健人はそれまで気楽にくつろいでいた背筋を反射的にぴん、と伸ばした。
「……、」

──目が輝いたのが自分でも分かった。

 歌が終わると、ぺこりと頭を下げてステージを去った少女の姿が舞台袖に消えても、健人は他の観客同様、熱狂的な、惜しみ無い拍手を送り続けていた。
 流石にアンコールは無いが、──恐らく舞台袖の中で誰かに促されたのだろう、少女は一度は去ったステージをやや小走りに駆け戻って来た。拍手が更に高揚し、彼女は再び礼をする、──と思えた。
 ──が、彼女はステージの中央へ辿り着く前に何に足を取られたものか、突如ぱたりと転んだのである。
「あ」
 どっ、と笑い声が沸き起こったが、暖かい拍手もそれに連れて大きくなった。少女は顔を真っ赤にして立ち上がり、気恥ずかしさからかぺこぺこと忙しない礼を数回繰り返すと、くるりと踵を返して今度こそ駆け足でステージを去った。
「あっちゃー、アレックス、またコケちゃった、」
 大丈夫かな、と拍手を送りながらも心配する健人の横で、ありすが目許を覆って天を仰いだ。
「アレックス?」
「うん。アレックス、上手でしょ? でも、おっちょこちょいなんだぁ、普段から何も無いところでああやってすて──ん、って転ぶの。今日もやっちゃたね」
「──アレックス、」
「うん、……ほら、アレキサンドラ・ルクセンブルクって。ドイツからの交歓留学生なんだ。あたし達はアレックス、って呼んでんの」
「──……、」
 健人は呆然とありすの指したパンフレットにある文字を眺めたままだ。──「アレキサンドラ・ルクセンブルク」。
「……お兄ちゃん? 健人兄ちゃんッ!?」
「ありす!」
「えッ!?」
 突如、──さほど大声では無いがやや常に無く切羽詰まったような兄の声で、ありすはびくりと肩を竦めた。
「……何っ?」
「……知り合いなのか、……その、さっきの娘と」
 ──ああ、うん……、と未だ「吃驚したー、」という感情を動作で示しながらありすは頷いた。
「あたしは新体操部でアレックスとは違うけど、でも凄く仲良しなんだよ。良く、一緒にカラオケに行くんだー……──、」
 ──そこで、ありすははた、と少女の第六感に閃く所があって、改めて健人の顔を覗き込んだ。──にやにや、とその口許には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「……健人兄ちゃん」
 そして、顔を上げた健人の耳許にさっと顔を寄せて──この人込みでは誰に聞こえるでも無いだろうに──態と両手で隠しながらこっそりと囁く。
「──一目惚れ?」

 ■

「ありす!」
「やっほー☆ アレックス、とっても素敵だったよー!」
 楽屋として使用されていた特別教室で、アレキサンドラ・ルクセンブルク──彼女は、それだけの何気無い褒め言葉にさえ照れを見せ、白い端正な頬に朱を滲ませて俯いた。──それでも、心から嬉しそうに笑みを浮かべて。
「有り難う、聴きに来てくれたのね、──嬉しいわ、とっても……、」
「うん、本当にきれいだったよッ! 歌も、アレックスも!」
 まあ、──とアレキサンドラは更に心からの恥じらいを見せ、ちらりと顔を上げた。
「歌の翼に、だったよねぇ? 確か音楽の合唱でやったなあ、何だっけ……Auf
Flugeln des Gesanges……、」
 ──Herz liebchen, trag'ich dich
fort、遠慮がちにアレキサンドラはありすに合わせて口ずさみ、晴れやかな笑顔で笑った。
「そう、だから皆に分かって頂けると思った事もあったけれど、わたくし、この歌が本当に好きなの」
「アレックスにぴったりだと思うよ! とっても似合ってた。──ねー、健人兄ちゃん、」
 そうして、ありすは戸口の向う、廊下に控えていた健人を手招きした。──ドキドキと、緊張でやや表情を強張らせながら健人は教室へ顔を覗かせ、アレキサンドラと視線をまともに合わせてしまって慌てて会釈した。
「……初めまして、葛城です。ありすがいつも仲良くして貰っているみたいで……、……ええと、今日は妹に誘われて遊びに来たんですが、」
「ああ……、ありすのお兄様なのね」
 アレキサンドラは美しい、心から友好的な笑みを浮かべた。その彼女が直後、顔を赤らめて狼狽えたのは健人が手を差し伸べていたからである。彼にしてみれば極自然な挨拶のつもりだったが、異性という事で緊張したのかも知れない。そこまで慌てられれば、他意の無かった健人本人までが何て軽率な、……変に思われただろうか、と焦りを覚えてしまう。──が、彼が手を引くより先に、素早くその手とアレキサンドラの手を掴んで握手を交わさせたのは、ありすだ。
「はい、初めまして☆」
「……、」
 黙って呆然と見つめ合う健人とアレキサンドラも、ありすの無邪気な仲介には大分打ち解けて、お互い頬に朱を差したままでぎこちない微笑を浮かべた。
「……初めまして。アレキサンドラ・ルクセンブルクです。……長い名前でしょう? ありすや皆もアレックス、と呼んでくれますわ、だから、どうぞそうお呼びになって下さい」
「アレックスさん、──僕は健人です、葛城健人」
「……健人、」
「さっきのステージも、ありすと一緒に見せて貰いました。……何て云うのかな、本当に良かった。正直、声楽曲があんなに良いものだなんて思わなかったんです、接する機会が無くて。でも、……本当に素敵でした」
「まあ、……有り難うございます。──いやぁ!」
 突然、アレキサンドラが健人の手を振り解いて両手で顔を覆ったので、健人は肩を竦めて狼狽した。……何だろう、何か、変な事でも云ってしまったか。
「何て事かしら、……では、……あの、見られてしまったのですわね、わたくし、ステージであんなに派手に転んでしまっ──、……ああぁ、本当に厭、ありす、どうしましょう、」
「……、」
 健人は思わず吹き出した。──何て親しみのある娘なんだろうという好意から出た笑いだったが、その事でアレキサンドラは更に恥じらって顔を俯ける。
「大丈夫、アレックスらしくって良かったじゃん、」
 ぽん、と元気良くありすは彼女の背中を叩いた。
「厭ですわ、そんな、らしいなんて、何てそそっかしいのかしら!」
「気にしない〜☆」
 そこで、ありすはにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえねえ、もう出番は無いんでしょ? だったら、アレックスさえ良ければ健人兄ちゃんに学校を案内してあげてくれない?」
「ありすッ!」
 狼狽した健人を、アレキサンドラの目を盗んで態と、じろり、とありすは睨む。「黙ってるの!」という風に。
「ええ……、わたくしは構いませんわ、でも、ありすは?」
「あたしは友達と約束してるしぃ、いつまでも健人兄ちゃんに付き合えないのー。……じゃあ、アレックス、お願いねッ!」
 ぽーん、とありすはアレキサンドラの背中を元気良く叩いた。──そこで、健人に向けて突き出される筈のアレキサンドラだったが──。
「──きゃあっ!」
「アレックスさん!?」
「……ごめんっ、アレックス!」

 ……また、転んだ。

 ■

 ──ごめん、……付き合わせて。
 学院の敷地を肩を肩を並べて歩き回り、模擬店を冷やかしたりとしながら傍らのアレキサンドラにそう侘びた健人に、彼女は屈託の無い笑顔で首を振った。
「構いませんわ」
「でも、アレックスさんだって友達と回りたい所もあるだろ?」
「本当に構いませんの、……健人の事は、ありすから良く聞いていましたし、お話し出来て嬉しいですわ」
「僕の事を?」
 驚いて目を見開いた健人に、ええ、──とアレキサンドラは明るく笑った。
「わたくしは学院の寮に入っていますけれど、ありすは通学で……、実家は仙台で、東京ではお兄様と2人で部屋を借りているのだとお聞きしましたわ。とっても頑張り屋さんなお兄様だって、ありすの自慢でしてよ」
「ありす、」
 ……全く! 
 別段、これがありすのただの女友達であれば健人も照れる事は無かった。だが、彼女の前では──、……前から自分の存在を知っていた、その事だけでドキドキとする程に気分が高揚した。……何故かは分からないが……。

──一目惚れ?

「……、」
 ありすが戯けて囁いた言葉が脳裏を過った。──全く、ませた事を、……でも、……。

──そうかも知れない……。

「ドイツ、なんだよね、アレックスさんの実家は」
 自然に話せるように、と務めて心掛けて健人は彼女の話題に触れてみた。
「ええ、バーデン・ヴュルテンブルク州、──分かりますかしら、南西部なのですけれど」
「ああ、大体の所は」
「とてもきれいな所ですわ。実家はネッカー川の側の丘の上なのですけれど、葡萄畑が一面に広がって。実家ではハウスワインの製造も行っているのですけれど、収穫の季節の風景は毎年見ても、本当に素敵なんです」
 彼女の口調は、自慢するというよりは本当に故郷を心から愛おしみ、懐かしむ様子だった。何を云っても気さくで嫌味が無い。健人はすっかりと緊張を忘れ、彼女の言葉──そう、先程美しいソプラノで歌を歌っていた声で──に引き込まれた。
「ハウスワイン? ……ああ、ドイツワインは有名だよね、……と云って、僕はそんなにワインなんて飲んだ事は無いから知った風な事になってしまうけど。実家は、農家か何か?」
 くす、と無邪気な笑い声をアレキサンドラが上げた。
「農家、……ええ、ある意味そうとも云えますわね。でも、ワインの製造は片手間ですわ。父はホテルを経営していますの。実家は11世紀に立てられた古城で、父はそれを、外観はそのままに、アメニティだけを施したホテルに改築して経営しております」
「──古城!?」
 城、実家が……、と健人はやや面喰らった。……何処となく、親しみ易さは充分でも立ち居振る舞いが洗練されていて、上品な娘だとは思ったが……。
「……もしかして、アレックスさんは上流階級のお嬢さん?」
 まあ、とアレックスは屈託のない朗らかな声を立てて笑ったが、それに応えた彼女の言葉は健人にショックを与えるには充分だった。
「お嬢さんだなんて。……ええ、確かに父は貴族の末裔ですから上流階級と云われるかも知れませんけど──、」

 ■ 

 まさか、一目惚れした相手が正真正銘の貴族の娘だったとは。……国籍の違いを置いても庶民の自分、特に、国民全員が中流階級と云われる日本でも特に家計が豊かとは云えないような自分が彼女に恋をしたなど、身の程知らずも良い所では無いか。
 健人は、賢明な両親を誇りに思う。だから決して豊かでは無い家の事を卑下しはしない。だが、それにしても貴族だなんて、──溜息を吐かずにはいられなかった。
 然し、彼女は本当に屈託の無い娘だ。貴族だと云って何を鼻に掛けるでも無く、ラーメンの模擬店の前で立ち止まって「まあ、良い匂い」などと嬉しそうに呟く辺り、──確かにありすとは上手く付き合えるだろう、と思う親しみ易さだ。
 そんな事を今から悩んでも仕方ない。健人は気を取り直し、良ければここで昼食を食べないか、と提案してみた。
 貴族という身分は別にしても、気品の漂う彼女が果たしてそんな庶民的な食べ物をランチに、と誘って首を縦に振るとは思い難かったが、アレキサンドラは嬉しそうに頷いた。
「良いですわね、……実は、ちょっとお腹が空いてたんですの、……歌があるので、朝を大分控えて来ましたから」

 授業用の机と椅子を複数組み合わせてテーブルを作った他愛の無い模擬店。ヴィクトリア学院の制服の上から、それらしい三角巾と割烹着を来た女生徒に注文をすると、彼女はそれを別室まで伝えに行く。
「ラーメンをお願いします」
「わたくしも、ラーメン」
 笑顔で続いたアレキサンドラに、健人は忍び笑いを禁じ得なかった。
「……?」
「だって、……何だか、似合わないような、それらしいような。……でも、物凄く意外な取り合わせだよ」
「提案為さったのは健人でしょう?」
「何だか、こう云ったら悪いけど貴族らしくないよね、アレックスさん。……あ、気を悪くしないで欲しい、……似合わないとか、そういう意味じゃ無いんだ。何だろう、全然話し易いし、お高く止まっているようなイメージがあって、貴族って」
「普通ですわ。確かに、お金には困りません。でも、それだけにとても厳しいのです。父自身、貴族と云うよりはホテルの経営に専念して強かなビジネスマンのようですわ。わたくしも、交歓留学生として日本へ来たのですけれど、それにしても、世の中にはお金が無くて学びたい事を諦めなければならない人も居る、それが許されている人間は一生懸命やらなければならない、って。だからという訳ではありませんけれど、わたくしも歌のレッスンだけはどんなに日本が楽しくとも欠かしてはいけないと思っています。こちらでも紹介して頂いた先生に付いてレッスンを、──、」
 あら、──わたくし、自分の事ばかり、とアレキサンドラは控え目な表情で困ったように笑った。そう云う彼女の顔は、貴族のお嬢さんの顔とも、親しみのある極普通の女子高生の顔とも違っていた。──夢に向かって真摯な努力をする人間、音楽を志す一人の人間の顔だった。そのあまりの毅然とした強い目には、健人も驚いた。──何て強い側面を持っているんだろう、……本当に、話せば話す程、心を惹かれてしまう──。
「いや、──楽しく聞いてるよ。夢があって、良いよね。音楽か、……本当に、素敵な事だ」 
 ラーメンが運ばれて来た。健人の大学の学食にもあるような、全体にチープな、模擬店なのでそれに愛すべきお飯事っぽさを加味したようなささやかな鉢である。
「美味しそう、頂きます」
 頂きます、と率直なアレキサンドラに従って手を合わせてから、健人はふと手を止めて顔を上げた。
「美味い食べ方があるんだ、……教えようか、」
「どんな?」
 健人は本格的な調味料の並んだトレイから辛子味噌のポットを開け、添え付けのスプーンでやや多目の中身を掬って躊躇いも無くラーメンの鉢に落とした。更にラー油を落し、胡椒をたっぷりと振りかける。
 一連の彼の動作を、向かいの席からアレキサンドラは目を丸くして呆気に取られてまじまじと見詰めていた。
 健人はそれらを軽く掻き混ぜてから蓮華で掬い、スープを一口啜って「うん、美味い」と微笑んだ。
「どうかな? ──まあ、何か、庶民っぽくて呆れるかも知れないけど、でも本当に美味いんだ。試して見たら。……良かったら、どうぞ」
 健人はつい、普段のつもりで何気無く自分の鉢をアレキサンドラへ差し出していた。──が、彼女にしてみれば他人の皿の物を、それも初対面の男性が口を付けた汁物を分けて貰うなど考えもしない常識から外れた事だろう。
「いいえ、そんな、」
「──あ、これは、」
 ごめん、つい、妹と一緒の時のつもりで、と健人は慌てて詫びた。──呆れた事だろう、何と俗っぽい事をして、しかもそれを回し喰いさせようとした、などと。
 だが、危惧する健人の前でアレキサンドラは大真面目に、一大決心でもするように屹然と顔を上げた。
「いいえ、……では、わたくしもチャレンジさせて頂きますわ、」
 そして調味料に手を伸ばし、自分の鉢に入れようとする。健人は慌てて制止した。
「ストップ、そんな、気を遣わないで。無理しなくて良いんだ、」
「いいえ、何事も挑戦ですわ。だって、折角外国の文化に触れる為にこうして留学しているのですもの。恐れていては経験になりませんわ、」
「駄目だよ、」
「これでもわたくし、新しい事に挑戦するのは好きですの、」
「──だって、……入れ過ぎだよ、君」
「えっ……? ──!」
 そこで、アレキサンドラは手を止めると同時にはた、と顔を背けて両手で口許を覆った。直後、──……くしゅん! 
 ……と、激しいくしゃみが彼女の高い声で上がった。

 ■

 一騒動の昼食を終え、模擬店や展示の冷やかしも一通り済んでしまった頃だ。
「……あの、」
「はい、」
 健人は顔を上げたアレキサンドラを、──つい、思い詰めるあまり彼女がドキドキとする程に真っ直ぐ見詰め、思い切って言葉を掛けた。
「良かったら……、この後、一緒に珈琲でも飲みに行きませんか、その、模擬店では無くてどこか近くの……、」
「……えぇっ!?」
 びくり、とアレキサンドラは目を見開いて口許を覆い、信じられないような顔で健人を見たまま一歩、足を後ろへ引いた。吊られて慌てたのは健人の方だ。
「いや、ごめん、変な意味じゃ無いんだ、……その、静かにお話出来れば良いなと思っただけで、決して、誘惑しようなんてそんなつもりじゃあ、」
「いけませんわ、そんな、学生の身で男性と喫茶店だなんて、……、」
 云ってから、アレキサンドラはごめんなさい、と申し訳無さそうに謝った。
「まるで、健人が変な人のような云い方をしてしまって……、……ごめんなさい、わたくし、ちょっと吃驚したんですわ、……その……、……学院以外で、あまり男性とお話する事なんてありませんでしたから、」
「構わないよ、気にしないで。僕こそ軽率だった。……でも、」
 割と──、──潔癖なんだね、いや、勿論蓮っぱに見えるって訳じゃ無いけれど。健人は首を傾いだ。今時、その程度の事で顔色を変えるなんて。
 実は、アレキサンドラは極度の潔癖性なのだ。それは彼女とは2歳違いの姉が、対照的に性的に奔放な女性で、その節操の無い交遊関係を間近で見せ付けられた事への反発に拠る所が大きかった。まして、彼女の姉、エリザベートの最初の男性は彼女達の父の親友だったのだ。──嫌悪して自然の成り行きである。
 然し、自分も悪かった、と思いながらもあまりに申し訳無さそうなアレキサンドラを見ていると、極自然な思い遣りから健人は何とか気まずさを払拭したいと考えた。
 少し逡巡してから、再び提案してみる。
「──そうだ、じゃあ、ありすと一緒なら? 僕、妹を探して来るよ。ありすと3人でだったら、気を遣う事も無いだろう?」
 ──勿論ですわ、喜んで。
 ようやく顔を上げたアレキサンドラは明るい笑顔を取り戻していた。

 ■

「……寂しいよねぇ」
 咥えていたオレンジジュースのストローを口から離し、ぽつりとありすが呟いた。
「本当、1年ってあっと云う間だったね」
「……、」
 ヴィクトリア学院の文化祭の日に健人、ありす、アレキサンドラの3人で来た喫茶店、同じ店に今こうして3人が揃っていた。
 健人のアレキサンドラへの気持ちを知ったありすは兄の恋心を応援するべく、何度と無く気軽に声を掛けては3人で会う機会を作ってくれた。大抵は同じ喫茶店だったが、一度はカラオケに行った事もある。「アレックスさんの前で歌うのは恥ずかしいな、」と云いながらも健人がヒットソングを歌ってみせると、アレキサンドラは「とても上手ですわ、声がきれいだもの」と無邪気に拍手を送ってくれた。そうこうしている内に異性との付き合いに敏感なアレキサンドラも打ち解け、時にはありす抜きの2人で珈琲を飲んだりもした。話の話題は学生らしいものである。特に、アレキサンドラの声楽家になるという夢への思いと、それに向けての努力の経緯に耳を傾ける事を健人は喜んでいた。
 1年、──それは、アレキサンドラの予め決っていたヴィクトリア学院での留学期間だ。
 ようやく打ち解けたと思えた頃に、アレキサンドラはドイツへ帰ってしまう。今初めて聞く事では無かったので覚悟はしていたが、──矢張り、寂しい気持ちも悲しさも抑え切れない。
 然し健人は殊更明るく、ドイツでも頑張って、とアレキサンドラを励ました。──確かに寂しいけど、仕方ない事だから、日本で応援してるよ、と。
「わたくしも本当に寂しいですわ、……2人も、機会があれば是非わが家へいらして。飛び入りでも全然構いませんわ、何しろホテルですから御客様の寝る場所には困りませんもの」
「本当? やったね、楽しみ☆」
 ありすは健人に向かって無邪気な歓声を上げて彼も頷いたが、本心では分かっているのだ。いくらホテルで歓迎してくれると云っても、学生の身分ではそうそう簡単にドイツへなど行けない事は。先ず、片道の交通費、──旅客機のチケット料金だけで気軽な金額では無い。
「忘れないで。……わたくしも、日本へは絶対にまた遊びに来ますわ」
「そしたら、その時はウチにアレックスを泊めてあげるね☆ ……ホテルとは大違いで、辛うじてお風呂とトイレが付いてるだけのボロの木造アパートだけど」
「嬉しいですわ、わたくし、家の造りの善し悪しだなんて、こだわりません」
 冗談めいた軽口を交わし合うのは、別れの前の寂しさをせめて一瞬だけでも忘れようとする必死さからだ。──健人は、その間中言葉少なだった。

 数日後には、アレキサンドラは成田空港から故郷のドイツへ向けて空の人となってしまった。
 揃って見送りに出向いた帰り道、何時に無く暗い表情の健人にありすが──彼女なりに精一杯の激励を──云う。
「健人兄ちゃんー、顔が暗いよー?」
「……だってさ、」
 良く晴れた空を見上げながら健人は微笑して溜息を吐いた。
「──……初恋みたいなものだったのになあ。……叶わないものだよね、」
「告白して振られた訳でも無いのにぃ、」
 焦れったい、とありすは頬を膨らませた。
 ──どん、と次ぎの瞬間には健人の背中が痛い程強く叩かれていた。冗談でも、しなやかな鞭のようにバネの利いたオリンピック新体操選手志望のありすの腕で。
「痛っ、」
「だったらさぁ、健人兄ちゃんがお金持ちになってアレックスを迎えに行けば良いじゃん!」
 らしくないよぅ、と無邪気な顔で、ありすは、夢のような、お飯事のような事を提案する。──良いね、それ。応えた健人も冗談混じりだ。
「そうだよ! 健人兄ちゃんは何たって国立大学の経営学科だもん! その気になって頑張れば、きっとすっごーいエリートサラリーマンになっちゃって、アレックスが吃驚するような紳士になっちゃうよ!」
「そうだな、──良し、」
 頑張ってみるか、と健人は──逆にそれが殆ど不可能に近い事だと分かっているからこそ、の満面の笑顔で──ガッツポーズをして見せた。
「オッケー☆ それでこそ健人兄ちゃん!」
 ありすもウィンクと共にガッツポーズを返した。──屈託の無い笑い声が弾ける。 

 ──然し、健人が本当に努力しよう、と密かな決意をしたのが何時だったか、と問えばこの時だという事になる。──本気で努力して、……少しずつでも良い、彼女に近付けるような人間になって、……いつかは彼女を迎えに行けたら。

──Auf Flugeln des Gesanges, Herz liebchen, trag' ich dich fort,
  fort nach den Fluren des Ganges, dort weiss ich den schon sten Ort,

  歌の翼に恋心を乗せて、君を運んで行く
  あの白く輝く星の処に、希望に溢れた夢の国まで──

 ■

 それから5年が経過した。
 今、成田空港からフランクフルト国際空港への飛行機でビジネスクラスの座席から窓の外の空を眺めている彼は既に国立大学経営学科の学生では無い。
 あの日、同じ成田空港からアレキサンドラを見送った時に立てた密かな決意を、彼は本当に実行した。夢のような話だとは分かっていたが、何もしないよりは良い。何より、行動に移さなかった事を後で後悔したくない。──彼女は本物の、特別な女性だった。きっと、その後悔は一生の物になる。
 努力すれば必ず報われる。そう信じて、必死でここまでやって来た。
 大学を卒業してから健人はドイツ系の外資系企業に就職し、同時に学生時代には選択しなかったドイツ語も学んだ。5年、──独立するのに充分な資金を貯めるのに、5年の歳月を要した。その間の会社務めの中では、何れ独立する為に必要なコネクションを積極的に得て行く事も忘れなかった。
 そしてつい最近、健人は独立してドイツ関連の貿易会社を設立した。
 規模は本当にささやかながら、それは健人が自分で創り上げた彼の会社だった。彼が得た物はその会社だけでは無い。一個の会社のトップに立つ人間として相応しい人間性も、5年間の企業務めの間に養って来た。──尤もこれは彼の知る所では無かったが、……成り上がりでも良い、意思の力でそこまでの成果を上げた人間には自然と人間性までもが構築されるものだ。
 アレキサンドラは今、ミュンヘンの音楽大学で声楽を専攻しながら、才能が──そう、あの真剣な努力を続けた結果の才能を──認められて、プロの声楽家としての活動を始めたばかりだそうだ。──今、季節は薔薇の美しい6月。初めて会った時に彼女が語った、彼女の愛すべき故郷の小高い丘にはどれだけの薔薇が咲いているだろう。
 機内でも、健人は仮眠を取ったりとして寛ぐ事は出来なかった。そんな事をしては、折角の──アレキサンドラに会いに行くのに相応しいようにと選んだ──正装が乱れてしまう。
 最も、普段着だからと云ってのんびりと眠りを取る事が出来る心持ちでも無かったが。
 
──機会があれば是非わが家へいらして。飛び入りでも全然構いませんわ、何しろホテルですから御客様の寝る場所には困りませんもの……、

「……本当に来ちゃったな、」
 どんな顔をするだろう、アレキサンドラは? 驚くだろうか、約束を覚えているだろうか? 喜んでくれるだろうか?

 飛行機がフランクフルト国際空港に着陸した。出国審査を受け、人込みに混ざって絶間無く行き来するバゲッジの中に彼のギターケースを見付けた健人は、トランクはさて置いて先ずそれを拾い上げた。
 ゲートを潜るとロビーのベンチに腰掛け、蓋を開いて中身の無事を確認した。──良かった、無事だ。きっと、大量のトランクなど殆ど投げ捨てるように乱雑に扱うというバゲッジの積み降ろし専用の職員も、成田空港で云われたように丁寧に扱ってくれたのだろう。
 蓋を閉め、健人は目を細めてケースに張られたラベルを指先でそっと撫でた。
「……『Flagire』、か」

──一緒だね、僕のこの気持ちと。

 ■

「本当に来て下さったなんて、」
 アレキサンドラは僅かにあった、健人の不安を良い意味で裏切ってくれた。
 5年前よりもちょっと大人びて、美しく成長していたアレキサンドラはそう云って驚きを現したと同時に、──また会えて嬉しい、と心から歓迎してくれた。
「──お父様! お母様!」
 女学生のままのようなはしゃぎ方でアレキサンドラが呼び寄せた彼女の両親に健人は引き合わされた。ねえ、いつかお話したでしょう、ヴィクトリアでの大の親友だったありすのお兄様、本当に遊びに来て下さったのよ……、──日本や、そこで過ごした自らの16歳の頃を懐かしむ心と、暖かな歓迎の籠った声で両親に健人を紹介するアレキサンドラ。
「健人、父ですわ」
 そう、アレキサンドラは彼女の父、──ヴィルヘルムを健人にも紹介しようとした。彼は厳格そうな、誇り高い貴族そのものといった人間だったがその時、健人に向けられた笑顔は友好的で、親愛の情をも垣間見せていた。
「ようこそ」
 そう、健人を気遣ってか日本語での挨拶を述べてくれたヴィルヘルムの手を躊躇わずに握り返しながら、健人は毅然とした笑顔さえ浮かべて挨拶を返した。
「Guten Tag.」
 ──5年間の間に努力して習得した、既に美しい発音にまでなっているドイツ語、アレキサンドラや彼等の国の言葉で。
 まあ、──とアレキサンドラが驚いたように目を見開いて口許を覆った。……いつの間に……。

──5年間の間にこんなに毅然とした男性になっていたなんて……。
 
 元々、明るくて心から優しい人だとは彼女も思っていた。努力家で真面目な青年だという事も知っていたが、──それにしても、なんて立派な変わりよう!
「Guten Tag. ──Willkommen!」
 その返答をドイツ語で返したヴィルヘルムは笑顔に、一層の親しみを見せた。再び、確りとした握手を交わし合う。健人も堂々とそれに応えた。
 母親のレベッカとも同じように握手を返すと、アレキサンドラは是非城を案内したいと云った。
「健人、荷物は預けて下さいな、後で、今回あなたに泊まって頂く客室に運んでおいて頂きますわ」
「有り難う」
 促されるままに健人は旅のトランクを預けたが、もう一つの荷物、──ギターだけは未だ傍らに置いていた。
「もし、アレックスさんさえ良ければ」
 お城は後にして、外を案内して欲しい。──健人はそう切り出した。
 君があんなにも愛しそうに語ってくれた、美しい丘を。
「勿論ですわ、……丁度良かった、今は薔薇が美しい時ですの、……丘に咲く野ばら、」
 快く請け合ってくれたアレキサンドラに、然りげなくギターケースを手に持って健人は続いた。

 ■

「いつの間にドイツ語がこんなに上手になったの?」
 ネッカー川、葡萄畑、それに雄大な空の下に広がる緑の景色を楽しみながら、暫く会わない間の近況語りやありすの事などが話題に上る内、アレキサンドラが問い掛けた。
「そうかな? アレックスさんが聴いてそう云ってくれるなら、自信を持っても良いのかな」
「本当に上手ですわ、わたくし達から聞いても、ネイティヴでは無いなんて思えない位」

──君に少しでも近付きたくて、努力したんだ。……でも、

 この気持ちだけは、日本語でも、ドイツ語でも全て伝え切る事は出来ない。
 君に伝えたかった事。多分、受け止めては貰えないだろう。でも、せめて分かって欲しいんだ。それだけで良いのに、言葉では……、……何て云えば良いのか分からない。

──それでも、歌の翼に乗せれば……。

「アレックス」
 健人は立ち止まり、不意に真摯な表情でアレキサンドラを呼び止めた。
「はい?」
 見つめ返すアレキサンドラの笑顔は明るい。健人はケースを緑の大地の上へ置き、中からギターを取り出した。

「君に、この歌を捧げたいんだ」

 ──どうか、笑わないで聴いて欲しい。
 そんな健人の気持ちを悟ったものか、アレキサンドラは一度軽く傾いだ首をこくり、と縦に振って頷いた。

 ■

 『僕の歌は君の歌』。
 勿論、駆け出しとは云えプロとして活動を始めた彼女から聴いて、欠点が無い訳では無いけれど。
 ──何故だろう、今までに聴いた、どんなに感動した声楽の大家の歌よりも、どんな大作の芸術音楽よりも、今こうして彼が、繊細なアルペジオを大事そうに抱えたギターから奏しながら、囁くような、……アレキサンドラだけに聴こえる声で歌ってくれているポップスが、まるで初めて聴いた音楽のように胸に響くのは。

──……本当は、

 ……知ってましたわ。……あなたが大学を卒業して、ドイツ系の会社に務めて、今では自分の貿易会社を、……それもまたドイツ関連の会社を設立されたって。ありすから聞いていましたもの。
 ……わたくしでも、分かります。

 嬉しかったわ。……わたくしをずっと覚えていてくれた事、そうして意識してドイツに関わって来られた事で、もしかしたらいつかはわたくしを迎えに来てくださるのでは無いかと思えた事。

「──健人」
 はい、──緊張してしまって、急にそんなにも畏まっているのが何だか可笑しい。

「初めて逢った時の事を覚えている?」

 アレキサンドラは軽く呼吸を整え、片手を軽く空へ差し伸べた。薄らと開いた薔薇色の口唇から紡ぎ出された歌は、いつかよりもずっと伸びやかで柔らかく、この6月のドイツの空の中へとどこまでも広がって行った。

──Auf Flugeln des Gesanges, Herz liebchen, trag' ich dich fort
  fort nach den Fluren des Ganges, dort weiss ich den schon sten Ort,
  Dort liegt ein rotbluhen der Garten im stillen Mondenschein;
  die Lotosblumen erwarten ihr trautes Schwesterlein……
  
  Dort wollen wir nieder sinken unter dem Palmenbaum,
  und Lieb' und Ruhe trinken und traumen seligen Traum,
  und Traumen seligen Traum, seligen Traum……──

「わたくしも、あなたの事が好きでした。……ずっと、」
 
 アレキサンドラは空に向けていた手を、今度は健人へと差し伸べた。

──どうぞ、この手を、……わたくしの翼を受け止めて。

 ──それまでは、自分から手を握る事も、軽く触れる事さえも出来なかったアレックスが、自分から手を差し伸べてくれている、──健人に。

「アレックス」

 彼は彼女の手を取り、2人は暫しその場で見詰め合った。──微笑みを交わしながら。

 ■

  歌の翼に、この想いを乗せてあなたを連れて行けたら
  倖せに溢れた未来の夢へ
  陽光は全ての生命を花開かせて、水面に花は薫る……、

  あの大樹の下低く佇み
  そして語り合いましょう、愛を、穏やかな倖せを
  夢の中へ行きましょう

 ■

 葛城・健人とアレキサンドラ・ルクセンブルクが結婚したのはその翌年の事だ。
 それよりは更に長い年月が経過したが、6年後には彼等の第一子、樹が誕生する事になる。

- The End -


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