Liebestraum


「……、」
 吐き気のあまり、口許を押さえて蹲っていたエリザベートの脳裏に「あの男」の声が甦った。

──……、

 粗暴で、思い遣りの欠片も無い男だった。それなのに、──……ああ、あの声。話し方もどこか知的で、彼の低くて美しい低弦楽器のような声に触れた時、自分の欲望に火が点いてしまったのだ。もっと、もっと近くで、耳許で囁いて欲しい、──彼に抱かれたい、と……。

──……それにしたって、……何ということ……、

 ──エリザベート・ルクセンブルク。
 5年前にはチューリッヒはスイスの名門女子寄宿学校を卒業した彼女も、その後は女学校時代の必死の努力が実ってアビトゥーアに加え入学許可制限(ヌメルス・クラウズス)を満たし、故国ドイツ最古の名門、ハイデルベルク大学経営学部へ進学した。修士を取得して後、現在ではバーデン・ヴュルテンベルクの州都シュトゥットガルトにある父の貿易会社で働いていた。貴族の末裔であるエリザベートの父は11世紀に造られた古城をそのままに活かしたホテルを経営しており、ビジネスマンとしての才能をも発揮した彼はその傍らで主にワインの製造、販売を扱った会社をも経営していた。父親の会社の手伝い、と云えば気楽だが、実際には男の子供の無いルクセンブルク家、それも歴とした貴族の家を継ぐ為の修行のような物である。仕事は決して楽では無かった。
 それに相応しい人間になろうと、本来の明晰な頭脳に加え、真面目で、努力家としての性分を最大限に押し出してハイデルベルクさえ卒業してしまったエリザベートだったが、──反面、彼女はどうしようも無い悪い癖も持ち合わせていたのだ。──不純異性交遊。
 13歳にして在ろう事か、父の親友との火遊びに溺れてしまって以来、聡明な彼女も刹那的な欲望だけは抑圧出来なかった。元々、故国のギムナジウムでもトップクラスの成績を修めていた彼女、温厚な父がその娘を強制的にスイスの寄宿学校へ転校させるほどに激昂したのも、それが原因である。──当然とも云えば当然だが、然しそこでもエリザベートの悪癖は収まらなかった。そこで彼女は同性愛に目覚めてしまい、その美貌と洗練された魅力を以て多くの取り巻き、「仔猫」を持った。
 然し寄宿学校では、そんな彼女にも心から愛せるパートナーが現れた。──然し、全寮制の女学校の中では禁断の愛として育まれた仲も、お互いに夢を持つ2人の卒業後には障壁となる。2人はそれぞれの道を歩み出した、──身体は遠く離れてしまっても、お互いへの深い愛情だけは育み続けながら。……それでも……。
 ──それでも、性的衝動だけは収まっていなかったのだ、──否、本当に愛しているのは彼女だけには違い無い、それは背徳であっても、神にさえ堂々と胸を張って誓える。だが、身体と心は別……、……それだけ、という訳でも無いのだろうが……、……無論、パートナーに白状出来る事ではないので隠れた浮気、という事になるが、一夜限りの男女問わない身体の関係を、エリザベートは未だに続けていたのだ。
 
 あの男とも、そんな仲だった。

 ほんの少し前の事、偶然に出会った彼は、荒っぽくて強引で、それなのに、抗えない魅力を持った人だった。エリザベートは欲望の赴くままに彼に抱かれた。名前も、素性も何一つ知らない男。──今まで、そうならなかったのが不思議でさえあるが、その結果、妊娠してしまう可能性など考えもせずに。
 
 ──身体の異常と吐き気に気付いた時には、その男は既に彼女の許から姿を消していた。

 ■

 スイス、ヴォー州都のローザンヌ。目を奪うアルプスの緑が美しいレマン湖北岸のほとりの学術都市。音楽の都たるこの街に、1年前にウィーンの音楽院を卒業したテレーゼ・クレイは現在は音楽一家の家族と共に暮らしていた。
 ──父、ゲルハルト・クレイが50代前半にして音楽界ではピアノの巨匠としての地位を不動のものにした音楽一家とは云え、その中で彼女は疎まれた存在だった。
 彼女は離婚歴を持つ父の、前妻の子供だったのだ。同じ子供でも、性格から演奏スタイルまでが父にそっくりで、数年前にはショパン国際ピアノコンクールに入賞した経験を持つ兄とは違い、継母との折り合いも悪かったテレーゼは常に肩身の狭い思いをして来た。彼女の知る所で無いとは云え、テレーゼのピアノが、同じくピアニストだったという父の前妻と良く似ていた事も影響していただろう。
 その為、ローザンヌに生まれ育ちながら女学校時代はまるで追われるかのようにチューリッヒの寄宿学校へ送られた。孤独を余儀無くされ、自分の殻に閉じ篭り勝ちだった彼女も、──逆に、その事が倖いしたかも知れない。チューリッヒで彼女は運命の女性に巡り会ったのだ。
 テレーゼには想像も付かない世界だった女性同士の恋愛が成就するまでには波乱万丈の経緯があったが、彼女の存在はテレーゼに、自分への自信を持つ、という音楽家には欠かせない事を教えてくれた。内に秘めた情熱を、静かな演奏に乗せて表現する事を教えてくれたのも彼女なら、ここまで諦めずにピアノを続けて来られたのも彼女の愛情に満ちた叱咤激励のお陰だった。
 今、彼女は駆け出しながらソリストとしてプロの演奏家の道を歩み始めたばかりだ。──相変わらず自分に冷たい父との同居や、ピアノだけで生活をして行く事の難しさ、──苦難が無い訳では無いが、それでも彼女は確りと自分の足で、ようやく開けたばかりの未来へ向けて一歩を踏み出した所だった。

 そして現在、テレーゼは女学校時代に師事していた恩師を、チューリッヒの市内に訪ねていた。──テーブルを挟んで向かい合った恩師は、女学校に入りたての事のテレーゼ、自分に自信の持てない、進歩のしようが無かった頃も、また音楽院の試験が近付いてからも厳しい彼の顔しか見た事がなかった。だが、今、自ら嘗ての教え子の為に紅茶を煎れて差出してくれる初老のマエストロの表情はこの上無く穏やかで、優しい。
 女学校時代には、ともかく手厳しい批評を受けていた事しか頭に無かったものの、チューリッヒでは指折りの優秀な指導者である彼の手ほどきは、門下を離れてウィーンの音楽院に入ってから思い返してみれば全て、感謝してもし足りない程の愛情に満ちていた。学生時代から何回かは近況を綴った手紙を送ったりもしたが、いずれは実際に面会して改めて礼を述べたい、そしてまた話をしたい、と思っていた。音楽院は休暇中でさえ目の回るような忙しさだったし、卒業後も各地の演奏へと駆け回っている内に面会は先送りになってしまっていたが、最近、ようやく落ち着いた時間が出来たのでこうして、遅ればせながらのアポイントメントを取ったのだった。
 穏やかに、優しく「仕事としてのピアノはどうか」、となど訊ねられた事へ答えたり、感謝の言葉を述べたりとした後、テレーゼは一つの希望を切り出した。

「聴いて頂きたい曲があるんです」
「何かな?」
 ──リストを、と云いながらテレーゼは鞄から楽譜を取り出し、恩師の前へ差し出した。
「……愛の夢、か」
 実は、とはにかんで顔を俯けながらテレーゼは笑った。
「ずっと弾きたかった曲なんです。女学生の頃から。でも、当時はとてもじゃ無いけど畏れ多くて切り出せませんでした。……もし良ければ、少しでもアドバイスを頂きたいんです」
「喜んで」
 両手を広げた笑った恩師に促され、テレーゼはレッスン室へ移動してピアノに向かう。
 そうして、彼女の十指が奏し出した美しい旋律、──決して派手では無く、穏やかな演奏である事に変わりは無くとも、いつかよりもずっと、自由で、延び延びとした愛情を歌う彼女の音楽は、ロマン派最大の作曲家、リストに拠る「愛の夢」第3番──。

「ちょっと慎重過ぎるんじゃ無いかな?」
 嘗てのように、「指導」する姿勢では無い。──一度は自らの門下を離れ、ウィーンで別の教師に師事した生徒にそれはタブーである事だけで無く、「同じプロのピアニスト」としての視点で、あくまでアドバイスとしての感想を、演奏を終えたテレーゼに彼は述べた。
「堅い、……ですか、」
 そうだねえ、と彼は目を細める。
「堅いというよりは、音楽が細切れなんだね。未だ、曲の全体像を掴めていない感じがする。リストは難しいからね、そこで丁寧に一つ一つの技巧をフレーズ毎に復習ったからだと思うが、未だ、全てが一つの大きな音楽として纏まっていないようだ。──音楽は必ずどこかへ向かう、この意味は分かるね?」
「はい」
 確固とした返事を、テレーゼは真っすぐにマエストロへ向かって返す事が出来た。──私はその事を知っている、……エリザに教えられたから。今まで、その事は常に最大の注意を払って来たわ。
 何かに対して、自信を持ってイエスと答えられるという事。──自分自身を認めてやれる、それがこれ程大きな喜びとなるとは思わなかった。テレーゼの表情には笑みが自然と浮かんでいた。
「宜しい。そうだろうと思ったよ。君のピアノは、派手じゃないが明確に、音楽がどこかへ向かおうとする情熱を持っている。然し、それが未だ上手く繋がらないと云うのかな」
「繋がらない……、……音楽を前へ持って行く事は出来ていても、その向かっている先が間違っている、という事ですか?」
「音楽に間違いは無い」
 だから、そういう事では無い、と彼は断言した。
「そんな大層な事では無いんだ。要は、今よりも更にちょっと引いて、冷静にバランスを見なければならないんだね。自分の音を聴くのも冷静に、音楽をどこかへ進めるのも冷静に、またそのバランスも冷静に。──大変だね、然し、この冷静に、客観的に、というのが一番大事なんだよ。プロの演奏家としてはね。どれ程演奏に熱が入ってエキサイトしても、頭のどこかには一本、クールな思考を保っている事。これがまた難しいんだ。詰まらなさそうに感じるかね。でも、ちょっと考えてごらん。一時の情熱を歌心の限り完全燃焼したとしても、もしかしたらまたその次、直ぐに大きな波が訪れるかもしれない。そこでスタミナ切れ、或いは勢い余って望みもしない方向へ行ってしまっては台無しだ。ロマン派の音楽は、特にそうした傾向が強い。だから、全体像を把握するのは本当に大事なんだ」
「……難しいですね。……私、恥ずかしい事ですけど、それは出来ていると思っていました」
 思慮が浅かったんですね、と微笑したままテレーゼは俯いた。
「それは仕方無い」
 意外にも、鷹揚に彼は笑った。驚いて顔を上げたテレーゼに、「未だプロと云っても若いのだから」という言葉が優しく告げられた。
「音楽は、イコール人間性だ。どれ程明晰な人間でも、君のような年では私から見れば未だ未だ若い。思慮が至らなくて当然だ。然し、それは決して悪い事では無いよ。年を取れば、思慮は深くなっても矢張り情熱の点で若い人には敵わない。時には情熱に任せて羽目を外してしまうのも、また経験だよ。それも若い時にしか出来ない。……恐れずに、色々と経験してごらん。年を取るに吊れて、先を見通す広い視野も養われるし、何事も『悪い事は無かった』、と思える筈だ。全て、経験だね」
「……、」
「──さて、時間だ」
 マエストロは手を叩く。テレーゼはぺこりとお辞儀して礼を述べ、楽譜を畳んで胸に抱えた。
 テレーゼを送り出す為にレッスン室のドアを開けてくれた彼を、テレーゼは心からの親愛を込めた笑みを浮かべてこう述べた。
「……昔は、こんな事は仰らなかったですね。……私が出来の悪い生徒だった所為でもあるんでしょうけど、もっとはっきり主張しなさい、云いたい事を述べなさい、……、」
「音楽の教師として、生徒の能力に応じて云って良い事と悪い事がある。覚えて置きなさい、君も何れ教える立場に立つことだろうから。大事なのは、長所も欠点も含めた生徒の個性に応じて、必要な助言を与えてあげる事」
 テレーゼを見詰め返す嘗ての恩師の目、──優しさと、慈愛と、確り聞くのだよ、というほんの少しの厳しさの混ざった笑顔。
「やる気の無い生徒には、私は何も云わない。そして女学校の頃の君に云いたかったのは、主張しなさい、とその一言に尽きたね。自信の無い人間は、演奏出来ないよ。……そして、今の君に云いたい事はそうだね、そういう事だ。音楽は人生と同じ。何事も出来る内に経験して置きなさい。後悔しないように、大胆に、然し情熱的な自分を客観的に判断する目を持ったまま。その事をどうか覚えて置いて欲しいね、心の片隅にでも。──今で技術は充分、大人しさは君の個性だ」
「──有り難うございました」

──素敵な時間だったわ。……とても、大切な話が聞けた。

 ……感情に任せてクレシェンドし過ぎず……流れを見極めて……客観的に自分の音を聴く……。……それでこそ、テレーゼ本来の音楽が、精神の情熱が生きる。

 ■

 一方、ドイツ、バーデン・ヴュルテンベルク州。
 窓際に頬杖を付いたエリザベートには、既に父親の怒りも、母親の嘆きの声さえもただ冷たい背中へ弾き返されるだけだ。
「一体、誰の子供なんだ。相手の名前くらい、そろそろ告げてくれても良いだろう、」
「……、」
 ──お父様、お怒りはご尤も。わたくしだって当然の報いだと自覚しているわ。でもね、話そうにも、あの男の名前も素性も、わたくしは知らないのよ。……知っていた所で、話してどうなるものでも無いけれど。
「あなたの為を思って云っているのよ、──エリザ、」
「……、」
 母、レベッカの声は殆ど涙混じりに、懇願する調子になっていた。それでも、エリザベートは首を縦には振らない。──堕胎する事に。
「考えてみて頂戴、……卑しくも貴族の末裔であるお父様の長女のあなたが、どこの馬の骨とも知れない男性との子供を身籠っただなんて、……いいえ、そんな事では無いわ、家の名誉だなんて、この際どうでも良いのよ。ただ、あなたが! ……もし、素性の知れない人間であったとしても、あなたの夫として、そしてその子の父親となってくれるなら。それならば、仕方無い事だとわたくし達も心からの祝福もしましょう、でも、父の無い子供だなんて! ……分かっているの、あなたは未婚の母として、誰の子かも知れない赤ん坊を独りで生み育てなければならないのよ!」
「分かっていますわ」
「分かっていないわ! エリザ、あなた、子供を産んだ事なんて無いからそう気楽な事が云えるのよ。出産の苦しみがどれ程の物だか、あなた、分かっていて!? ──……、」
 流石に、云ってからレベッカははたと口を噤んだ。その、自ら腹を傷めた長女を前に何という事を。
「……ごめんなさい、云い過ぎたわ。そんなつもりでは無かったのよ、……エリザ、わたくしもお父様も、あなたを心から愛しているわ。でも、だからこそ乗り越えられた苦しみなのよ。その事を良く考えて頂戴、」
「……お母様、」
 くるり、とエリザベートはようやく上体を起こし──悪阻の所為かそれだけの動作がどうにも懈い──、両親を振り返った。彼女の真直ぐな視線に、揺らぎは無い。
「だからこそ、ですわ。わたくし、お母様には本当に感謝しております。勿論、お父様にも。ですから、……だからこそ。妊娠してしまったのは軽率だったわたくしの責任。お腹の中の子に罪はありません。その、生まれる筈の生命をわたくしの勝手な都合で絶ってしまうなんて、どうやって自分で許せまして?」
「現実的な問題を考えてみなさい、」
 ──発覚当初よりは大分落ち着いた、静かな中に厳しさと、こっそりと労りを滲ませた声で父、ヴィルヘルムが告げる。だが、それにもエリザベートは何ら怯む事は無く「考えましたわ」と答えた。
「世の中には、経済的な理由から堕胎せざるを得ない人が居る。それは人間として仕方無い事ですわ。でもわたくしには産み育てるだけの余裕があります。例え、その事で親子の縁を切られたとしても、今のわたくしには自分で働いたお金で産む事が出来ます、今後は働きながら育てるだけの自信もあります。充分に現実的な事ですわ。それが出来るのに、この子を、……お腹の中の子を殺すなんてわたくしには出来ません。……例え父親が居なくとも、半分は、……いいえ、全部。生まれて来るこの子の全て、わたくしの子供です」
「……、」
 あまりに毅然としたエリザベートの言葉には、ヴィルヘルムとレベッカも肩を落として顔を見合わせるしか無かった。
 暫くの沈黙の後、──分かった、そこまで云うならもう止めはしない、但し、今云った言葉を決して忘れずに自分で責任を取りなさい、との言葉を残してヴィルヘルムは部屋を立ち去った。
「──エリザ、」
 後に残ったレベッカは、愛おしい娘の肩を抱き締めて、──少し、顔色の優れない蒼白い頬を優しく撫でながら涙声で囁いた。
「……あなた、こんな事になってしまって。……あなたこそ、……いいえ、それは云わないわ。……でも、エリザ、あなた耐えられて? ……ねえ、一度で良いから本当の気持ちを聞かせて頂戴、今この部屋にはわたくしとあなたしか居ないわ」

──愛は無かったの?

「──嫌いでは無かったわ」

 母親の胸の中で、独白のようにエリザベートは答えた。

 ■

 ──チューリッヒよりローザンヌへ帰還し、父が在宅中の我が家の扉を開いたテレーゼは、珍しく──普段は、そこに居る娘を見ようとさえしないというのに──居間で自分を待ち構えていた父親が顔を合わせるなり自分への詰問を並べ立てた事に足を竦ませた。
「テレーゼ」
 先ず、父、ゲルハルトの剣幕に驚いて言葉を失っていたテレーゼの足許に、叩き付けるように数枚の紙片が投げ出された。
「これは何だ」
「──……!」
 拾い上げるまでも無く、その見覚えのある紙片の正体に気付いたテレーゼは瞬間、──さっ──、と自らの血の気の引くのを感じた。それは、ある人物からの手紙だった。

──……ああ、あの便箋、情熱的な言葉を連ねた彼女の文字、……エリザ!

 ──そうだ、テレーゼの同性の恋人、エリザベート・ルクセンブルクから彼女へ当てられた物だ。一体どうしてこれが、と混乱でよろめいた彼女に、吐き捨てるような口調でゲルハルトはピアノの上に置いてあった楽譜の間に挟まっていた、と告げた。──そうだ、……数日前、恋人を想いながらセレナードを奏でようとピアノの上に置いていて、……つい、そのままにしてしまっていたのだ……。
「『愛している』、『離れれば離れる程、あなたの身体に触れたくて気も狂いそう』、……口に出すのも汚らわしい、チューリッヒの女学校で真面目にピアノの勉強でもしているかと思えば、ウィーンではようやくましなピアノを弾くようになったかと思えば、これだ。私の目の届かない所で、まさかこんなふしだらな娘に育っているなどとは思いもしなかった、……、」
「酷いわ、それだって私の手紙を勝手に読むなんて!」
 大人しい筈のテレーゼも、父の口からエリザベートの熱烈な愛の言葉を聞かされて動揺した所為か、思わず甲高い声で反抗していた。彼女が自分でその事に驚く間も無く、ゲルハルトは蔑みの罵声を浴びせ掛けた。
「然も、差出人の名前は女じゃ無いか! ……ああ、あのお高いドイツ娘だな、どういう事だか説明しなさい、お前は一体、同性愛などと如何わしい関係をあの女と持ったのか、貴族だのと云ってとんだあばずれだ! ……親友だなどと云って平気で親を騙して……、なんて罪深い事を、」
「あばずれだなんて云わないで! そうよ、確かにそれは私の恋人からの物だわ、でも、エリザは本当に高潔な人なの! 私だって心からエリザを愛しているわ、女同士だからって、真剣にお互いを愛し合っている事を軽蔑する権利が父さんにあるの!?」
「私はお前の父親だぞ! 娘が如何わしい人間にたぶらかされないようにと案じて当然だろう!」
「父さんは私を心配してなんかないでしょう! ただ単に認めたくないだけなのよ、いくら父親だからって! そんな人に何も云われたく無いわ!」
「気は確かか、女同士で!」
「真剣なの!!」
 ──同性愛などと嘆かわしい行為に今後も耽ると云うならば、と幾分沈んだ声で、ゲルハルトは言葉を継いだ。それは諦めた、或いは落ち着いたと云うよりは、寧ろ関わり合いさえ持ちたくない、といった軽蔑し切った声だった。元来、これまでの言動にも顕われて来たように女性蔑視の傾向があったゲルハルトだが、その上に教義の厳格なプロテスタントでもあるのだ。女同士で愛し合うような罪深い人間が、自分の娘だなどと、認められる筈が無かった。

──同じだ、……結局、テレーゼもあの女と一緒で自分を捨てる……、

「お前など私の娘でも何でも無い、──勘当だ、お前とは今後一切親子の縁を切る」

 ■

 目に涙さえ溜めて、それでもテレーゼは屹然と顔を上げて「お世話になりました」と告げた。
 涙が込み上げたのは、勘当を云い渡された事が悲しかったからでは無い。エリザベートとの純粋な愛を、ただ女性同士であるというだけで蔑視された事、またその相手のエリザベートが侮辱された事が口惜しくて仕方無かった。
 そこまで罵倒されて、尚今後も理解を示してくれる希みが無いのであれば、エリザベートを諦めてまで親子の関係に縋る事は無い。それ程に、テレーゼはエリザベートを愛していた、この、彼女とは遠く離れたローザンヌの地でも。
 恋人の為に、テレーゼは家族を捨てた。その決断に迷いは無かった。──寧ろ、絶望したのは家を出た後、プロのピアニストとしても駆け出しの自分には、少しの間身を寄せる頼みさえ無いと気付いてからだった。

 ──結果的に、テレーゼは今、ドイツのエリザベート、ルクセンブルク家を頼るべくシュトゥットガルトへ向かう鉄道に揺られていた。……空の交通を利用するだけの余裕も無かったし、チューリッヒを──エリザベートとの女学生時代を過ごした想い出の街を、こうした理由で再び訪れるのは遣り切れない事だったが──経由すればそう遠くは無い。国際電話で少しでも良いから何とか頼らせてくれないだろうか、と懇願した時には相手にも多少の動揺はあったようだが、──こうして電話で話すだけではどうにもならないから、ともかく一度来てくれるように、とエリザベートは告げた。──大丈夫よ、うちはホテルだもの、──こちらまでの交通費はある? ──と、動揺の中にも彼女らしい、優しい心遣いを含ませて。

 その時のテレーゼは知る由も無かったが、ルクセンブルク家の人間にしてみればエリザベートの妊娠に重なった二重のショックだった。……否、だからこそ、と云うべきか……、行きずりの相手との子供を身籠ってしまったエリザベートが、彼女が大学生の時にチューリッヒ時代からの関係だったと知れた同性の恋人、テレーゼがその為に家を勘当されて身一つで頼って来た事など。
 然しそこでもエリザベートは毅然としていた。彼女を同性愛へ引き込んでしまったのは自分だ、その為には父親さえも捨てて駆け付けてくれた事を、不謹慎だがどれほど嬉しく感じているか。テレーゼは本当に大切な女性だと説いた彼女は、傷付いたテレーゼの目にどれほど高潔に映ったか。
 ……今暫くは、お互いにショックも大きく、冷静に決断出来る事では無いから、──とヴィルヘルムは、当分、落ち着くまでは客人として身を落ち着けるように、と提案した。──普通ならば疎まれて当然のテレーゼにも、厳格だが柔軟性を併せ持ったゲルハルトの態度は優しかった。
「当家は、ホテルなのだから何の気遣いも要らない。──折角、こうして訪ねて下さったのだ。私も妻も、そうだ、アレックスもだ。一家揃って君の来訪を歓迎しよう」
「……おじ様、」 
 ただ、有難うございます、と声が震えそうになるのを肩に添えられたエリザベートの手だけを頼りに抑えて頭を下げるのが、その時のテレーゼには精一杯だった。
 そうと決れば、と俄に気を取り直したヴィルヘルムの声も表情も明るくなった。──レベッカは、流石に複雑そうに黙ってはいたがそれでも笑顔を浮かべて、慈愛の籠った目でテレーゼを優しく眺めていた。
「エリザ、部屋に案内して差し上げなさい。……レベッカ、アレックスを。きっと大喜びするだろう、憧れのピアニストが、当分わが家へ留まってくれるのだから。独り占めしないように釘を刺して置かないとな、」
 そんなウィットに富んだ冗談さえ口にしながらも、ヴィルヘルムはその時には既に決心を固めていたのだろう。──こうなった以上は、テレーゼをエリザベートの生涯のパートナーとして認める決断をしなければならない。今は未だ彼女にそんな余裕が無いだろうが、落ち着いたら自分の養子として正式に縁組みをしよう、ピアニストであるからには資金援助も必要だ、それも惜しみ無く保証しよう、──。
 投資家として、将来の有望なピアニストのパトロンへ付くという打算が全く無かった訳では無い。が、それにしてはあまりにも行き届き過ぎた気遣いは全て、テレーゼへの謝罪の気持ちから出たものである。……自分の娘が同性愛に引き込み、仕舞いには父親から勘当される程に振り回された彼女にどうして侘びない訳に行くだろう。──奔放な性格はヴィルヘルムよりはその父である祖父譲りか、──全く、テレーゼには何と云って詫びれば良いか。……せめて、現実的な経済面でだけでも、出来るだけの労力も私財も捧げようと……。

 ■

 そうしてテレーゼは、戸籍上はヴィルヘルムの養子として、エリザベートの生涯のパートナーとなってルクセンブルク家へ受け入れられた。貴族の末裔たるルクセンブルクが、──と、特にここのような片田舎の閉鎖的な街では周囲の偏見が無い訳は無い。だが、全ては運命として定まった事だ。その事に対してエリザベートを始めルクセンブルク家の人間は何を恥じる事も無く、口先よりは行動で自分達には何の後ろ指さされる事も無い、と世間に示して見せた。
 テレーゼとしては少し、申し訳無さが先立つ事もある。然し、ヴィルヘルムがそうして自分を娘として受け入れてくれた以上、自分に出来る事──プロのピアニストとして、名声を得てルクセンブルクの名前を上げると共に、また、芸術を愛する、特にレベッカへの返礼として今後は後進の指導にも能って優れた音楽家の育成にも務める事──を決心した。

 ──然し、そこでこの一件は平和の内に終わりはしなかった。……そう、エリザベートの腹の中の子供。

 ヴィルヘルムは当初、エリザベートの妊娠の事は伏せていた。然し、6ヶ月も経てばお腹は誤摩化しようの無いまでに目立ってしまう。いつまでも隠し通せる事では無いと分かっていた。
 然し、それでもせめて気付かれない内はと隠していたのは寧ろ、父親に勘当されて行き先を無くし、ようやくの思いでルクセンブルク家を頼って来たばかりのテレーゼに与えるショックの大きさを思えばこそだった。それは賢明な選択であった筈だ。
 然し、ようやくルクセンブルク家での新しい生活にも馴染み出し、テレーゼが少しずつ調子を回復して行くかに思えた頃、──薄々は気付いていただろうが、最早これ以上は隠し切れないと悟ったエリザベートはせめて告白だけは潔く、妊娠の事を告げた。

 ■

「双子らしいわ」
「……、」
「予定は、10月なの」
「……、」
「父も母も、初めは反対したわ。けれど、わたくしがどうしても産むと云って聞かなかったのよ。申し訳無いけれど、テレーゼに会ってもその決心は変わらなかったわ。……だって、そうでしょう、お腹の中の子供には何の罪も無いのよ、それを、軽率だったわたくしの所為で殺すなんてとても出来ないわ。わたくしが、産みたいの。責任を取るというだけでなく、一人の母親として、愛情を持ってこの子達を育てて行きたいのよ、……、」
「……、」
 テレーゼに、返す言葉のある筈も無い。──……ああ、あんなにも大きく目立ってしまったお腹、あの中には今、相手も知れないエリザベートの子供達が居る。細くくびれていた彼女のお腹は、今は完全にその子供達の物だ。……ああ、それなのに! それなのに、その同じエリザベートが、彼女の口から、矢張り私を愛していると云う……。

「……、」
 
 ──幾らお腹の中の子供に罪は無いとは云え……、……間違ってもその命が奪われる事など認められはしないと云え……、……否、問題はそうでは無い、エリザベートが自分を裏切った、その事実は、激しい怒りというよりは絶望の苦しみとなってテレーゼを打ちのめした。
 
──……どうしたら良いの、……私は?

 彼女は、エリザベートとの愛を貫く為に父親からの勘当さえ甘んじて受けたのだ。それなのに、その時には、自分がルクセンブルク家を頼った時には既に、誰とも知れない相手との浮気の結果、エリザベートは既に子供を身籠っていたなんて! ──ヴィルヘルムが自分を養子として受け入れ、ピアニストとしての活動を含めた資金援助を約束してくれたからといって帳消しに出来る問題では無かった。

「……許して、」
「……、」
 
 エリザベートはそう、謝罪する。然し、テレーゼには返す言葉も、──怒りに駆られた罵声も、涙を浮かべて叫ぶ泣き言の一つさえも見付からなかった。
 限界を越えて絶望した時、人間は一時的に全ての感情を失う。今のテレーゼが、まさにその状態にあった。──許せない? 悲しい? 道化のような自分が滑稽で溜らない? ……どれでも無い、そうした様々な感情は、全て一瞬の内に限界値を振り切ってしまった。

──……どうすれば良いの?

 奇妙な程落ち着き払った精神状態の中で、テレーゼはただその事だけを思案した。……どうすれば良いのだろう。今、自分は何を行動すべきなのか。……そもそも、今、自分が行動に移すべき行為などという物が果たしてあるのだろうか……。

「わたくしを許して頂戴、……テレーゼ、」
「──……、」

 あれ程プライドの高いエリザベートが、跪いてまでテレーゼの許しを請う。項垂れた顔、伏せた目、彼女の美しい、いつもは自身に満ちた毅然とした光を輝かせているアイスブルーの瞳はただ静かに沈み込み、涙さえ浮かべていた。

──……ピアノ、

 ──静まり返った精神のまま、ようやくテレーゼの脳裏に一つだけ、閃いた物があった。それは、この状況に於いてテレーゼの取り得る、唯一の現実的な行動だった。

──……言葉では、行動では、私は自分がどうして良いのか、どうしたいのか想像する事さえ出来ないわ。……私は、……ピアニストだから。

 跪いたエリザベートの前で踵を翻し、静かな足取りでテレーゼはピアノに向けて歩き出した。

──……私からの答えなんて、……言葉では到底返せないわ。

 ピアノ、……自分にはただピアノがあるだけ。……口では、どんなに言葉を選んだって本当の気持ちは伝えられない。……私の本当の気持ち、貴女への、……私を裏切った、なのに、どうしようも無く愛しい貴女への言葉は、この指先に託す事だけが出来る……。

 テレーゼは鍵盤の上に手を翳し、静かに奏で出す、──……愛の夢、第3番、「おお、愛せる限り愛せよ」。

──……これが、私の答えよ、……エリザ。

「テレーゼ!」

 エリザベートは肩越しに、鍵盤に向き合ったまま振り返らないテレーゼの肩を抱き締めた。
「愛しているわ、」
「……、」

──……ろくでなし、

 私はエリザとの愛の為に、父娘の繋がりさえ捨てた。私の運命はエリザの為に嵐のように翻弄された。そこまで彼女に愛情を捧げたのに、……全てを捨てて貴女の許へやって来た私に与えられた仕打ちが、この在り様。
 なんて人。本当に、なんて酷い人!
 ……それなのに、

──私は、……それでも私は、貴女を愛せる限り愛するしか無い……、

 テレーゼの首筋に、エリザベートの口唇が強く押し付けられた。ただ、至高の愛情表現としてのキス。それを受けてもテレーゼの心は平静だった。──今日は既に、動揺し得る限り動揺してしまっていて、今更ここで高揚したりはしないわ……。
 曲の中で最も大きな音楽に差し掛かっても、テレーゼは冷静なままだった。……感情に任せてクレシェンドし過ぎず……流れを見極めて……客観的に自分の音を聴く……。……それでこそ、テレーゼ本来の音楽が、精神の情熱が生きる。

──……そう、……きっと、貴女は今後も情熱に任せて奔放に刹那的な愛を繰り返し続ける事でしょう。……ならば、私は冷静に、だけど永遠の……静かな変わらない愛情を貴女へ捧げ続けましょう。

 ──ドク、ドク、……テレーゼの感じた鼓動は、背中に押し当てられたエリザベートのお腹から伝わって来る、彼女の子供の胎動だ。

「……、」
 
 冷静な思考を保っていたテレーゼの頬が、ふっ、と弛んだ。

──赤ちゃんね。……随分と元気が良いみたい。

 もしかして聴こえているのかしら? 私のピアノが。……そう、喜んでいるのね。きっと、音楽の好きな子供が生まれるのだわ。──エリザの子供、……それは、私の……──。

──良いわ。

 父を持たない子供。だけど、エリザは私の永遠のパートナー。

 そうであるならば、私は生まれて来る子供の母親代わりとして、この子達をも精一杯愛しましょう。

──……音楽って、確か、胎教に良いのよね。

 エリザベートの胎内の衝撃が、背中の皮膚を通してテレーゼにも直接、伝わって来た。テレーゼは目を細める。

──……あ、今、お腹を蹴ったわね。元気が良いのは良いけれど、駄目よ、あまりエリザに負担を掛けちゃ。……子守唄はどうかしら? 伝わるかしら? ……ともかく、

 今は、愛の夢にお休みなさい。

 ■
 
 ──並んだ2台のベビーベッドの一つには、癇癪でも起こしたように泣きじゃくる男の子の乳児が仰向けていた。傍らに横たわるもう一人の赤ん坊も、──こちらは女の子だ、これでは眠るに眠れないが彼女は未だ大人しい。
「──ケーナズ、どうしたの、ミルクはさっき、貰ったでしょう?」
 彼女は男の子を抱き上げ、軽く揺すってあやす。──単に憤っていただけなのか、それだけの事で小さな、ミルク色の肌をした顔は──ぱっ、──と花でも咲いたように破顔した。
 
──赤ちゃんって、本当に百面相ね。

「さあさあ、お休みの時間よ。あなたが泣いていたら、ウィンも眠れないでしょう?」

 ──9月、葡萄の収穫の季節。エリザベートは男女の双子を出産した。予定よりも1月早い早産だったが、それは双子であるからだろう。
 エリザベートと同じ、秋の空のようなアイスブルーの瞳、柔らかい陽光のようなブロンド、──これは、エリザベートには無いものだ、父親の遺伝かも知れない──女の子の方が少しだけ体重が重くて大人しく、男の子の方が我が儘だ。
 ──双子だと云うのに、この違い。──個性よね、とテレーゼはいつも思う。
 そうした違いが、今後目まぐるしく成長して行くだろう2人のそれぞれの性格にどう現れるかは分からないが、今のところ、一つだけ正反対な双子に共通している事がある。

 テレーゼのピアノが大好きな事。

 男の子がどれほど憤っていても、女の子がどれほど膨れっ面をしていても、テレーゼが軽くあやしてピアノを弾いてやると揃って、気持ち良さそうににこにこ笑って仕舞いにはこてん、と眠ってしまう。

「さあ、良い子よ。ピアノを弾いてあげましょうね。──何が良いかしら?」
 満面の笑顔の他に返答は無いと分かっていながら、テレーゼはにっこりと微笑んで2台のベビーベッドを交互に覗き込む。
「──あら、リクエストしてくれないのね。寂しいわ。だったら、私が好きな曲を勝手に弾いちゃうわよ? ──そうね、『月の光』にしましょう。……あらあら、嬉しそうね。……そう、ドビュッシーよ、そう云えばケーナズもウィンも好きな曲だったわね?」
 テレーゼはピアノに向かう。そして両手を鍵盤の上に軽く添えて目を細め、繊細なメロディを歌い出す。

──月の光。

 ──色々な曲を弾いて来たし、これからもどんどん新しい曲にも挑戦しなければならないと思う。……でも、──とテレーゼは思う。

──この曲は、私がエリザと出会ってから今もずっと、私達の間で流れ続けて来たのだわ。……そう、まるで音楽を支える通奏低音<コンティヌオ>のように、……。

 これからも、私の人生は、……音楽は、予想も付かない事ばかりだと思うわ。時には激しい情熱を、時には冷たく沈み込む事も。……でも、どんな時でも、きっと、この曲だけはそんな私の心の奥底で静かに流れ続けている事でしょう。

──Clair de Lune.

- The End -


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