fur "Therese"


「ねえ、ちょっと見て頂戴!」
 女学生の歓談らしい、姦しい歓声が上がる。何気無くその一角を見遣ったエリザベートは、思い掛けない会話の内容に思わず耳を傾けた。
 声を上げた女生徒が手にし、友人達に示しているのは世界的な音楽の月刊雑誌だ。丁度、先日来音楽界を賑わせているショパン国際ピアノコンクールの話題が巻頭を飾っている。
「彼、……ほら、次点入賞のリヒャルト・クレイよ、ちょっと素敵じゃない?」
 リヒャルト・クレイ……。
 思わずエリザベートがぎくり、としたのはその名前からある人物の顔を思い浮かべてしまったからだ。クレイ、……テレーゼ・クレイ。
「あら、本当、」
「彼、ピアニストのゲルハルト・クレイの御令息なんですってよ、」
「クレイ? ……成る程ね、ショパンの演奏には定評のあるクレイ氏の御令息なら当然の結果だわ。次点なのは惜しいわね、でも、ショパンコンクールですもの、それだけでも充分に凄い事だわ……」
「……、」
 彼女には珍しく、会話に入って行く切っ掛けを掴めないまま、エリザベートはじっと彼女達を見詰めていた。そんなエリザベートの様子には気付かないらしい女生徒の一人が、突然、ぎくりとするような事を口にした。
「──ねえ、御存じ? ……テレーゼ・クレイ。彼女、そのゲルハルト・クレイの御息女なの。つまり、リヒャルト・クレイはお兄様って訳」

──テレーゼ!
 
 思わず、悲鳴を上げそうになったエリザベートには構わず、噂好きの女生徒達の会話は無邪気にも進行する。
 その時になって、彼女達の内一人の少女がエリザベートに気付いてにっこり、と親し気な笑みを投げて来た。
「……、」
 何とか口唇を持ち上げてそれには応えたものの、矢張りエリザベートは平常心では無く、少女が眉を曇らせた事にも気付かずに目を伏せて反らしてしまった。
「……誰?」
「厭ぁね、居るじゃないの、ほら、小さくて、蜂蜜色の髪の娘よ。いつもおどおどしてて、居るか居ないか分からないような……、」
「──ああ、」
「そう云えば、何度かピアノを弾いている所を見たと思うわ。でも、同じクレイ氏の子供でもお兄様と違ってあの娘はダメよね。全然、何の印象にも残らない演奏だったもの。間違ってもショパンなんて弾けないでしょうよ、」
「話じゃ、クレイ氏って一度離婚為さっているのよ。前の奥様との子供が、テレーゼ・クレイって訳。お兄様の方にはどこかクレイ氏の面影が見えるけど、彼女は全然よね、……きっと、その別れた奥様似なのよ……」
 
──止めて頂戴!

 がらり、と扉を勢い良く開け、教室の外へ飛び出したエリザベートを、少女達は会話を中断して唖然と見詰めていた。
「……まあ……、」
「お加減でも悪くあそばしたかしら?」
 常に、年不相応の落ち着きと優雅な物腰を崩さないエリザベートが乱暴な程に物音を立てて廊下へ飛び出すなど……、──何があったのかしら? と少女達の関心は寧ろ、その原因へと移ったようだ。
 囁き声を交わす少女達の中、先程エリザベートに気付いて笑顔を向けた少女──ドイツ系らしいが、どこかイタリア系の血も混ざっているらしい黒髪に黒い瞳の──だけは、あまり面白くも無さそうな表情で黙ったまま、エリザベートの消えた戸口を見遣っていた。
「……エリザ?」

 ■

 ここは、チューリッヒはスイスの上流階級の子女用の名門寄宿学校である。彼女、エリザベート・ルクセンブルクはドイツ貴族の末裔であり、父ヴィルヘルムは母国ドイツで古くからの城を活かしたホテルを経営していた。母レベッカは音楽への造詣が深く、その影響で長女のエリザベートを始め、2歳年下の妹アレキサンドラ、7歳年下の末の妹マルガレーテ達は彼女から熱心な音楽教育を受けた。中でもアレキサンドラは学生ながら声楽方面での才能を発揮し、既に輝かしい将来が待望されるまでに至っている。エリザベートはあまり演奏面で特出した才能には恵まれなかったようだが、レベッカの音楽教育のお陰か音楽への深い理解と確かな感覚は身に付けていた。
 素行不良で厳格な父の怒りを買い、ドイツの実家からはるばるスイスの寄宿学校まで矯正の為送られて来たエリザベートが、自ら父の跡を継ごうと決心して故国の名門大学、ハイデルベルク受験を目指して図書館で独り勉強に打ち込んでいた時、彼女の心を捉えたピアノの音があった。
 それがテレーゼ・クレイの弾いていたドビュッシーの「月の光」だった。
 つい、その音色に惹かれてピアノ室を覗き、彼女と出会ってしまったのがそもそもの過ちだった。
 父から疎まれ、また内向的な性格から自分を主張する事が出来ず、ピアニストとしての将来を夢見ているにも関わらずなかなか伸びる事が出来なかったテレーゼを支えて行く内、──恋してしまった。テレーゼの事を。
 相手が同性というだけであれば、エリザベートが今更動揺する事は無かった。問題は、行き擦りの男相手の火遊びにもレスビアンとしての恋愛にも慣れていた筈の自分が、本気で、そう、まるでこれが始めての恋であるかのようにテレーゼに夢中になってしまった事である。
 大人しいテレーゼがまさか、エリザベートが同性の自分を恋愛対象として愛している事など知る由も無い。
 遊びだったら。ただの軽い気持ちであれば、彼女をその美貌と洗練された魅力で以て誘惑し、取り込んでしまう事もエリザベートには簡単だった筈だ。
 だが、彼女は本気だった。
 本気でテレーゼを想い、それだけに同性から愛されている、という事で彼女がショックを受けないように、と身を引く事を決意した。
 然し、表面上は今まで通りのお友達で、などという器用な事はエリザベートにも出来なかった。それほどに真剣だった。自然とテレーゼを避け、冷たくあしらうようになってしまった。
「……、」
 教室を飛び出したエリザベートは今、敷地内の中庭に出て木陰から天を見上げていた。晩秋の午後、穏やかな木漏れ陽が彼女の白皙の美貌に影を落とし、ぼんやりとするエリザベートを揶揄かっているようだった。

──駄目よ、……エリザベート・ルクセンブルク……。

 エリザベートは自らを諭した。

──テレーゼの事は忘れると、極めたじゃ無いの。テレーゼの為よ、その為には憎まれても、冷酷にも突き放すと極めた筈よ。……それを、たかが名前が話題に上ったくらいで動揺していてどうするの……。

「エリザ」
 鼻に掛かったような甘い呼び掛けで、エリザベートの意識は外へ向けられた。……まだぼんやりしていて気付かなかったが、先程エリザベートに笑顔を向けた黒髪の少女が立っていた。……追って来たのだろうか?
 エリザベートは殊更平静を装い、余裕を持って「何?」というように微笑んで首を傾いで見せた。少女が擦り寄るように軽やかな足取りで駆けて来る。
「ねえ、どうしたの、エリザ? さっきはあんなに取り乱して、顔色が悪かったわ」
「……そうかしら?」
「何か気になる事でもあるの? ……あたしに出来る事があれば云って、エリザの為なら何でもするわ。……今ここで、慰めてあげても良い」
 甘えるように首に腕を回して来た少女を、エリザベートは障り気無く拒絶した。
「有難う。でも大丈夫よ。ただ、確かに今日は気分が優れないわ。……ゆっくりした方が良いかも知れないわね。……そう、部屋に戻るわ。今日は早くに休む事にしましょう。あなた、伝えて置いてくれて? 夕食は止すかもしれないわ」
「……エリザ」
 踵を返しかけたエリザベートの腕を、少女が引き留めた。拗ねたような表情が、その顔に浮かんでいる。
「ねえ、キスして」
 そう云って、目を閉じてエリザベートを待っている。エリザベートはふらり、とこめかみを押さえながら彼女に悟られないよう、そっと溜息を吐いた。
「……まあ、……困った仔猫ちゃんねえ……、」
「そうよ、だって、遊びだもの。だったらいっそ、うーんと我侭な方が楽しいでしょう? キスして、エリザ」
「……今日はね、本当に気分が優れないの。だから、キスだけよ」
 そう云って、隙を与えずにエリザベートは軽く少女の口唇に口付けた。

 ■

『 親愛なる父さん、兄さん。

 御無沙汰しています。
 如何お過ごしでしょうか。
 そろそろ受験勉強にも身を入れなければならない時期になってきましたが、私なりに頑張っている積もりです。
 御期待に沿う結果を出せるよう、勉強にもピアノのレッスンにも励みたいと思います』
 
「……、」
 何て素っ気無い文面かしら、とテレーゼは思う。形式ばった文章、親愛なる父さんに兄さん。されている筈も無い期待に添えるよう……、──。
 然し、これ以上続けるべき言葉も見つからなければ、砕けた言葉で親しい文章に直す必要性も思い当たらない。……どうせ、ただの社交辞令のような手紙なのだ。
 溜息を吐き、頬杖を付いたままテレーゼ、と署名を入れる。──その後で、未だ書かなければならない事があった、と思い出した。

『追伸、兄さんのショパンコンクールの結果を知り、とても嬉しく思います。心からお喜び申し上げます』

 ペンを置き、蓋を閉じて机代わりにしていたピアノの上に、楽譜と一緒に重ねて置いてあった音楽雑誌を手に取った。
 雑誌の巻頭を賑わせているのは先のショパン国際ピアノコンクールの話題である。
 テレーゼの兄、リヒャルト・クレイが入賞したのだ。最終選考にまで残った事は聞いていたが、まさか次点とは云え入賞するとは不意打ちだった。
 これでまた、父は兄を褒めそやす事だろう。──だが、自分でも不思議な事に、皮肉でも無く、また身内の成功を喜べるでも無く、それはテレーゼにとってはどうでも良い事だった。今回の結果は、ただ兄がショパン国際ピアノコンクールで4位という成績を残した、と云う事実であり、それ以上でもそれ以下でも無かった。
 以前の彼女であったら、──動揺した筈だ。然も、課題曲がショパン、──父の得意とするショパンの作品のみに限られる特殊なコンクールに兄が入選したと知れば、激しく嫉妬しもしただろうし、またそんな兄と引き換え自分は、と絶望し、落ち込んだ所だろう。

──本当に、不思議。

 そんな自分への感想さえ、非常に淡々とした精神状態で呟いてから、テレーゼは手紙を封筒に入れた。……また、今後レッスンに出た時にでも投函して置こう。
 ピアノの蓋を開けて姿勢を正し、両手を鍵盤の上へ伸ばす。
 目を閉じる。──呼吸を、今から弾き出す音楽に合わせて整え、既に暗譜している音の並びをイメージする。そして、目を開くと同時に軽く、然し気を張り詰めて息を吸う。

──英雄ポロネーズ。

 つい先日、ようやく弾けるようになったポロネーズ。大変な難曲という訳では無いが、力強く、精神的な音楽だ。大人しくて内向的。自己主張の苦手な自分には到底弾ける曲では無いと思っていた。それが、ある瞬間、一切の重力から解放されたかのように軽やかに弾けるようになったのだ。

──全て、あなたのお陰なのよ、……エリザ。

 エリザベート・ルクセンブルク。
 美しくて、大人びていて、洗練されていて、聡明。女生徒達の憧れの的。
 そんな彼女が、テレーゼの独り弾いていたドビュッシーに惹かれてつい聴き入ってしまった、と声を掛けてくれ、彼女の悩みを知ると心から親身に、時には中々に手厳しく叱咤激励してくれたのだ。その結果、テレーゼはそれまで捕われていた強迫観念──父の様に弾かなくては、私みたいなピアノでは駄目、という──から解放された。
 エリザは掛け替えの無い親友。本当に大切な人。

──エリザ、……エリザ!

 テレーゼはやや顔を仰向け、恍惚として口唇を開いていた。高揚した精神から奏されるポロネーズは段々とクレシェンドし、ついには指が回らない速度にまでアッチェレランドしてしまっていた。
「……、」
  
──駄目!

 はっ、と我に返った所でテレーゼは両手を引いた。
 手を胸に当てると、……どきどきどき……、と心拍はとてつもなく速くなっていた。
「……矢っ張り駄目だわ、……私」
 こんな風にピアノを弾いては駄目なのに……、と、テレーゼは思う。
 教師から嘗て、執着こく云われ続けていた言葉が甦った。──ちゃんと自分の音を聴きなさい、自分の弾いている音楽を冷静に聴きなさい。
 自分の音を聴く、それはとても初歩的な事だ。然し音楽は精神的なものである。今自分が弾いている音楽が、確りと思い通りの表現を伴っているかを冷静に判断する事はとても難しい。だからこそ、自分の中に確固とした基盤が無い人間はプロにはなれないのだ。
 ……でも、とても駄目、今の私には……。テレーゼは楽譜立てに両肘を付いて突っ伏した。
 エリザ、……エリザベートの事が気に掛かって仕方無い。
 ──最近、エリザベートが冷たい。
 エリザベートは最初から、何故他人の私の為にここまで親身になってくれるのかしら、とテレーゼが戸惑う程に優しかった。元々、多少の事で動揺したり、気分次第で他人への対応を変えるような事はしない冷静さがエリザベートには備わっていた。こんなにどうにも進歩しない私のレッスンに付き合って、呆れてしまわないのかしら? とテレーゼが不安を抱いた時でも、彼女は変わらずに鷹揚だった。
 それが、本当に急激な変化だった。
 丁度、テレーゼがエリザベートの助言で自らの本当に歌いたい音楽に到達し、自信を持って練習の成果を聴いて貰った直後の事だ。エリザベートは「良かったわ」と当たり障りのない感想を告げてから後、不意に口を噤んで何のアドバイスも与えてくれず、悪い所があれば、落ち込んだりしないからはっきり云って欲しいと願い出るとまるで逃げるようにピアノ室を飛び出してしまった。
 それから後は、寄宿舎や校内で顔を合わせてもテレーゼを避けるように視線さえ合わせてくれず、話し掛けても適当な相槌を打って直ぐに切り上げられてしまう。
 何か、無意識の内にエリザベートの気に障る事をしてしまったのかも知れない、──元々内向的なテレーゼは、何が悪かったのだろうと思い悩むだけで傷付いてしまい、とても耐えられなかった。

『真剣に色々と思い出してみたの、でも、私には一体何がいけなかったか分からないのよ、エリザ。お願いだから、はっきりと云って頂戴。そしてどうか許して欲しいの、……あなたとはお友達で居たいわ、エリザは、本当に大事な人なのよ』

 一度、耐え切れない感情に任せてエリザベートを掴まえてそう懇願した。その言葉を聞いてもエリザベートはますます苦々しい、──と云うよりは苦しそうに眉を顰めて、「あなたは悪くないわ」と突っ跳ねるだけだった。

「……酷いわ、……こんなの」
 折角、心の拠り所を得た、──私の「英雄」が現れたと思ったのに、自由になれたと思った瞬間からこんな冷たい仕打ちを受けるなんて、残酷だわ。
 ピアノに突っ伏したまま、テレーゼは独白した。
「……何が悪いの、……はっきり云ってくれた方がどんなにか楽なのに……」
「何が悪いですって? 極まってるじゃない、あなたの、その鈍感さが悪いのよ」
「……!?」
 不意に投げ付けられた刺々しい声に、テレーゼは驚いて身を起こして振り返った。
 入口のドアに片手を付いて凭れ掛かり、もう片手を腰に付いた威圧的な姿勢で、あまり優しいとは云え無い笑みを口許だけに浮かべた女生徒が独り、立っていた。
「……あ、……あの……、」
 ふふん、と彼女が鼻先でせせら笑いながら中へ入って来る。コツ、コツ、……と本来ならばここまで響く筈の無い足音がやけに高く鳴った。校則違反の、ヒールの高い靴を履いているのだ。
「なぁに? そんな異邦人でも見るような顔、しないでよ? 厭ぁだ、あたしとあなたって、同級生じゃないの」
「……知ってるわ、……ユーリアさん、……ユーリア・カウフマン」
 何だ、知ってるじゃない、と少女は黒髪を掻き上げた。近くで見れば靴の他にソックスもリボンも規則の物では無く微妙に色合いの異なったプレタポルテで、制服自体にも手が入って形が違う。尤も、そうしたアレンジの一つ一つにセンスの良さが感じられ、全体として彼女は非常にコケティッシュに見えた。
 上流階級の娘ばかりで、世界的な大手企業のトップの娘なども珍しくは無い女生徒達の中でも、得にテレーゼが彼女の顔と名前を即座に一致出来たのは、年頃の少女らしい理由からである。
 彼女、ユーリア・カウフマンは衣料メーカーの社長令嬢で、父親の名前はファッションに興味があれば一度ならず耳にした事がある筈だった。その令嬢ともなれば、少女達の噂話に名前が挙がる事も多い。更に、ユーリア自身がそうした家庭の影響もあるのか、服装も言動も大人しく規則に収まりはしない、個性的な性質を発揮しては教師から睨まれ、それでも何ら堪える事が無く「あたしはこんなカタい学校、卒業したらパリに行ってデザイナーになるの」と豪語する英談を振り撒いている事もあった。
 ともかく、彼女が校内でも「特別に目立つ」有名人である事は確かだった。
「……あの、……鈍感って、何の事?」
 ユーリアのようにエキセントリックなタイプの人間に話し掛けることは、テレーゼに大きな緊張を要した。それでも、ここ最近ずっと思い悩んで来た事だ。おずおずと遠慮勝ちに視線を合わせながら、テレーゼは彼女に問いを発した。
「エリザのコト、」

──エリザ、

 顔色が変わったらしい事は、同時に皮肉っぽく眉を持ち上げてユーリアが笑った事から明らかだった。
「矢っ張り、あなただったのね、エリザが気にしてるのは」
「……待って、」
 耐え切れず、テレーゼはそこで立ち上がった。
「ユーリアさん、エリザの何を知っているの? ……エリザは最近、冷たいわ。私はこんな人間だもの、何か悪い事をしてしまったのかも知れない、でも、謝ろうとしたって何がいけなかったかも分からないのよ、なのにエリザは『あなたは悪く無い』って云うの、……何があったの、エリザに。矢っ張り、私がいけないの、それとも、何かあったの? エリザに……、」
「エリザ、エリザって云わないで! あなたがそうしてうじうじ悩みながらエリザの名前を呼ぶと、腹が立って仕方ないわ!」
 びくり、とテレーゼの肩が強張った。──声を上げた後で、流石に云い過ぎたかと思ったらしい。一呼吸置いて後、ユーリアは大分声の調子を和らげた。
「ごめんなさい。……でもね、エリザがあなたの事を考えているのは確かなのよ。あなたを見て、はっきり分かった」
「私の事を……、」
 コツコツ、とテレーゼを含めたピアノの周りを歩きながら、ユーリアは続けた。
「エリザが『あなたは悪く無い』って云った事、それも本当。でも、エリザが最近ぼんやりしているのはあなたが原因、それも本当。……どういう事だか、分かる?」
「……分からないわ、……どうか教えて、」
 ──コツ。
 テレーゼの傍らに再び巡って来た所で、ユーリアは足を止めた。片手をピアノに付いて身を乗り出し、意地悪な色を目に浮かべて囁くようにテレーゼの横顔に耳打ちした。
「エリザは、あなたの事が好きなのよ、テレーゼ。それも、ただ大切なお友達とかそういう事では無いの。……ここまで云えば、いくら鈍感なあなたでも分かるわよね?」
「……そ、……」
 膝の上でスカートを握り締めた手が震えていた。視線はピアノの鍵盤を無意味に彷徨い、焦点が合っていない。明らかな動揺を示したテレーゼを横目で眺めながら、ユーリアは更に厳しく棘々しい声を投げ付けた。
「エリザは同性愛者なのよ。女性でも愛する事が出来るの。……あなたの事は、最初は本当に大切な友達でしか無かったと思うわ、でも、何を間違ったかエリザ、本当にあなたを愛してしまったのね。実はあたし、エリザの『仔猫』なの。この意味は分かるわよね? エリザはどうでも良い相手なら、そうして遊んで終わりなのよ。でもあなたは違う。エリザは本当にあなたが好き。ねえ、あたしがエリザの仔猫だなんて、あなたには想像も付かない世界でしょう。だからこそエリザは、あなたがショックを受けないように黙って気持を押し隠して、冷たくあしらいもしてたんだわ」
「……、」
 可哀想なテレーゼ、……彼女はもう俯いた切り、言葉を発する事もユーリアの言葉の意味を冷静に考え直す事も出来なかった。
「エリザは苦しんでいるのよ。本当に辛そう。……あたしが、厭なのよ、そんなエリザを見るのが」
 すい、と視界に落ちていたユーリアの影が消えた。云うべき事は云ってしまった、と見ると移り気な猫のようなユーリアはもう、出口に向かって歩き出していた。
「キツい事云ったかも知れないわね、罪の無いあなたに。……でも、これで分かった? エリザが一番辛いのよ。愛する人を想うあまりに冷たく接しなければならないなんて、こんな事ある? 分かったら、あなたも少しはエリザの気持ちを考えて頂戴。エリザのあなたへの気持ちが女同士の恋愛感情であると認めた上でそれに応えられないなら、キレイなお友達のままで居ましょうなんて甘い事は思わないで。これはあなたが決断しなくちゃいけないのよ。エリザを受け容れられないなら、きっぱりと諦めて。……でないと、あたしみたいな『仔猫』が良い迷惑なのよ」
「……エリザ……、」

 ■
 
──今日は、月は出ないのね。
 
 寄宿舎の廊下を歩きながら、ふと窓の外を見遣ったテレーゼはそんなことを思う。
 空は暗く、激しい風が吹き荒れている事が破裂音を立てて震えるガラス窓から知れた。

──嵐になるのかも知れない、……。

 テレーゼは再び歩き出した。外の世界の激しさとは対照的に、彼女の心は落ち着いていた。
 これから訪ねる人の事と、その後を思うと胸がドキドキする。だが、それは最近悩まされ続けていたような、何故、という懊悩とは違った興奮だった。一つ、自分の気持ちに決着を着けた事で迷いが吹っ切れたのかも知れない。
 今日は、色々な事を考えた。
 ユーリアに云われた事は確かにショックだった。
 エリザが私を愛している。
 エリザベートが同性愛者で、ユーリアのような遊びの恋人を多く持っているらしい事、そのエリザベートが自分を本気で愛してしまっている事、自分に非があり、ここの所エリザベートが冷たいと思っていたのが本当は、そうした気持ちを悟られて自分がショックを受けないようにというエリザベートの切ない程の思い遣りから来た態度だった事。

──エリザを受け容れられないなら、きっぱり諦めて。お友達のままで居ましょうなんて甘い事は思わないで。

 ユーリアの言葉の意味は良く分かる。確かに、そうしてエリザベートの本心には気付かなかった事にして友達のままで居られれば、どんなにか楽だろう。そういう事にしてしまえば、テレーゼは自分で決定的な決断を下す必要は無い。──元々、人間は自らの認知を超えた世界には防衛本能が拒絶を示すものだ。
 だがそれは出来ない相談だ。あんなにも自分の事を親身に思い遣ってくれ、またそうしてテレーゼを思うあまりに自分が傷付く事を選択したエリザベートにそんな残酷な付き合いを強いる事は出来ない。
 それにユーリア、『あたしが迷惑なの』と勝ち気っぽく云ってはいたが、彼女も本当にエリザベートの事が好きなのだろう。
 ユーリアも真剣なのだ。
 彼女より、自分の方がエリザベートの愛情を深く受けているかも知れないからと云って、それに甘んじるのは狡い事だ。エリザベートもユーリアも本気だとすれば、テレーゼもまた真剣にこの問題と対峙しなければならない。
 だからと云って、直ぐに決断出来る問題では無かった。
 自分の気持ちを整理しなくては。
 そう思った時、自然と身体がピアノと向き合った事にテレーゼ自身が驚いていた。
 以前は悩みの種だったピアノ。自らのコンプレックスへ厭という程明確に向き合わされるピアノ。然し、今ばかりはピアノに向き合う事が自分へ冷静な心理状態を与えてくれると直感的に分かっていた。その事が本当に喜ばしく、まるでピアノが自分を受け容れてくれたかのようにさえ思った。
 
──これも、エリザのお陰。

 普段、練習時間の大半を費やしているような基礎練習や新曲の譜読みをする必要は無い。暗譜で弾けるもの、──自分の中にある音楽で弾ける曲を。

──「月の光」。

 全ては、この曲から始まった。エリザベートが好きだと云ってくれた曲。それも、「あなたの弾く『月の光』が好きなの」と。

──エリザは、私のどんな所を好きと云ってくれたのかしら。

 まずはそこから考える事にした。
 一音一音、冷静に耳を傾けて客観的な判断を下しながら表情豊かな冒頭のアンダンテを奏でる。
 
──私はエリザのように華やかでもないし、積極的でもない。ユーリアさんのように魅力的でもないわ。大人しくて、控え目で、……。

 でも、エリザベートはそんなテレーゼの内面そのものの演奏が好きと云ってくれたものだ。静かな中に内面の情熱が迸るような、──。

「……、」
 
 情熱、──そう考えると、どこか気恥ずかしくなる。
 エリザが私の何が好きと云ってくれたか、……分からないわ。そう、それは分からなくて当然の事かも知れない。
 だけど、ただ大人しくて自分の世界に閉じ篭っただけの自分が好き、と云うのでは無い筈だ。表立って主張出来なくても良い、静かな中にも情熱がある事、音楽への、そして他人への愛情がある事。

──辛かったわ、最近、エリザに嫌われたと思っていた時は、本当に。

 音楽はルバートに差し掛かった。
 自由にテンポを揺らしながら、テレーゼは考え続ける。音楽は内面の葛藤に同調して、悩み事のように不安定に流れた。テレーゼはその音楽へも、冷静に一音も聴き洩すまいと耳を傾けた。──そうして自分の演奏を客観的に判断する事が、この悩みに答えを出す事にもなるのだから。

──不思議、……そう、分かったわ。ずっと云われていた、『自分の音楽に冷静に耳を傾けなさい、それは精神的な、とても難しい事』。……音楽って、自分を探す事なのね。

 私は、エリザどう思っているの? ただの友達? 恋人にはなれない? そう、矢っ張り同性の恋人なんて……、少し怖いわ。今までそんな事、知らなかったもの。

──でも。

 もしもただの友達としか思っていなかったのなら、冷たくあしらわれた事でここまで辛いものかしら? 何故、私は苦しかったの? エリザに嫌われる事、エリザを失うのが怖かったから……。

 展開部のアルペジオが大きな広がりを持ってテレーゼの中に広がっていった。
 もっと高く、と渇望するような上昇音型。何かを求めて両手を空へ精一杯伸ばすような気持ちだった。

──私は、エリザを愛しているわ……。

 ただのお友達では無く、掛け替えの無い人として。それは、確かに愛情と云える筈だ。
 打ち明けなきゃ、エリザに。あなたが好き、と。勿論、未だ少し怖い所もあるわ。……でも、エリザとだったら、きっと大丈夫。
 
 それほど、私はエリザが好きなの。

 自らの愛情にさえ気付いてしまえば、後はそれを冷静な思考で抑圧する必要など無い。テレーゼは感情を全て解放した。エリザベートへ対する感情を、全て込めたアルペジオを奏でる。 
 ──その上昇を願う展開部が不意に途切れると、音楽は再び冒頭の主題を提示して終わる。但し、伴奏に流れているのは冒頭に於ける控え目で遠慮勝ちな和音では無く、展開部の音型をそのまま残したアルペジオだ。
 このまま弾き切ってしまおう、とテレーゼは思った。
 素直に、エリザベートへの感情を現したまま。そして、音楽が終わったら……。

「……、」
 そして、テレーゼはエリザベートの部屋の前へ辿り着いていた。
 消灯時間1時間半前、寄宿舎の中では遅い夜だった。
 そっと手を伸ばし、先程、そうやってピアノに感情を反映していた時のように軽くドアをノックした。
 ──ドアが開くまで、少し時間が掛かった。
 テレーゼ自身、思い詰めたような表情をしていたのかも知れない。ドアを開けて顔を出し、テレーゼを認めたエリザベートには戸惑いとも困惑とも取れそうな精神の揺らめきが見て取れた。
「……テレーゼ……、」
 ……そう、この戸惑いの中に、テレーゼへの愛情があったのだ。
 未だ少しよそよそしく、立ち話も何だから中へどうぞ、と促すエリザベートに続きながら、テレーゼは軽く姿勢を整えた。

──大丈夫。ちゃんと、自分の音楽を、自分の気持ちを聴く事が出来たじゃない。私の答えは出たわ。
 
 あとは、エリザに打ち明けるだけ。

 ■

 嵐から一夜明けた空は、蒼く冴え渡っていた。

──きれいなアイスブルー、……そうだわ、エリザの瞳、たまにあんな色に見える事がある。

 この空の冷たく、澄み切った空気のようにピアノ室へ向かうテレーゼの足取りも軽い。
 
──飛べそう。

 不意に、口許が綻んだ。勿論、実際にはとても無理。私はせめてその気持ちをピアノに投影するだけ。
 昨夜の事を思い返すと、未だ頬が熱くなる。外気にさらされてひんやりとした両手で頬を抑えながら、テレーゼは軽く頭を振った。

──ダメ、ダメ。ここで練習を怠けたりしちゃ意味が無いわ。さあ、今日も練習よ、テレーゼ!

 然し、そう自らを叱咤してピアノ室のドアを開けようとしたテレーゼは直前で手を止めた。
 ピアノの音が聴こえて来る。
 ……バガテル、ベートーヴェンの「エリーゼのために」。……誰が?
「……、」
 音を立てないようにそっとドアを開け、中を覗き込む。テレーゼが弾き慣れたピアノの前に座っていたのは、エリザベートだった。
「……、」
 その表情は真剣だった。──意外、エリザがピアノを弾けた事も、それに、何だって簡単に軽くこなしてしまいそうなエリザがあんなに一生懸命な表情で何かに打ち込んでいるのも。
「……、」
 邪魔したく無い。それに、この音楽を途中で止めて欲しく無い。
 テレーゼは入口で身を顰めたまま、黙って静かにピアノの音に耳を澄ましていた。──いつか、エリザベートがそうしてテレーゼの「月の光」を聴いていたように。
 
 音楽が終わった所で、エリザベートが振り返った。目には笑みと、ほんの僅かな照れがあった。

──何だ、気付いていたのね。

 微笑み返しながら、テレーゼはそう思った。──エリザは、こうしていつも私の居場所に気付いてくれていたんだわ。
「テレーゼに披露するのは少し照れるわね。わたくし、ただ楽譜をなぞる事しか出来ないのよ、恥ずかしながら」
 肩を竦めて悪戯っぽく笑ったエリザベートに、テレーゼは歩み寄った。
「でも、上手だったわ」
「わたくしにはこのバガテルが精一杯よ」
 テレーゼがピアノに辿り付いた所で、エリザベートは広げていた楽譜を手に立ち上がった。そこで2人は交代する。椅子に掛けたテレーゼに、エリザベートは閉じた楽譜の表紙を示しながら話し掛けた。
「この曲、本当は『テレーゼ』の為の曲だったのよ」
 知ってた? と目で問われてテレーゼは首を振った。
「ベートーヴェンの悪筆は有名でしょ。何でも、本当は彼の有名な運命の恋人、テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック令嬢に捧げたものだったのに、後から楽譜を編集した人間がテレーゼ、をエリーゼと読み間違えたのだそうよ」
 可笑しいわよね、と笑いながらエリザベートはテレーゼの顔を覗き込んだ。テレーゼの頬に朱が射す。エリザベートの存在がこんなに近くにあって……、……それに、だとすると今のピアノは自分の為に弾いてくれたものだった……? 

──だから、あんなに一生懸命に……、

 プライドが高く、また聡明な為に自分では人より上に立てないと判断した物事には手を出さないエリザベートが、あんなに真剣な表情でピアノを弾いていた理由……。
「弾いて頂戴、テレーゼ」
 テレーゼが座っている椅子の背に手を掛けたエリザベートの声で、テレーゼは現実に引き戻された。
「今日は勉強はお休みするわ。心行くまでテレーゼのピアノが聴きたいの」
「……何を?」
「そうね……、あなたの得意なドビュッシーが良いわ。先ずは『月の光』をお願い」

──「月の光」なら任せて。聴かせてあげられるわ。
 昨日、また新しい「月の光」を見付けたのよ。以前なら絶対に弾けなかった、私はエリザが好き、って気付いたから弾ける「月の光」があるの。
 ……聴いて、エリザ。

 ■

「ねえ、テレーゼ」
 エリザベートはテレーゼの肩越しにその華奢な身体を抱き締めた。蜂蜜色の髪を耳に掛けて口唇を寄せると、未だ熟し切っていない、甘酸っぱい花のような香りがした。
「あなた、もっと自由になれるわ。もっと、もっと高く。飛べるのよ、テレーゼ。見せて頂戴、自由な、あなたの望むあなた自身の姿を。そしてあなたはピアノを弾いて、わたくしに聴かせて頂戴」
「……エリザ、」
「大好きよ、テレーゼ」
 愛おしさを隠す事無く声に滲ませて囁くと、テレーゼはゆっくりと振り返った。
 エリザベートを見つめる目には、はにかみながらもその愛に応えようとする意思が輝いていた。
「……私もあなたが大好き、──エリザ」

 軽く口唇が触れ合った。
 今なら、何事にも怯えずエリザベートの愛情を受け容れる事が出来る。
 テレーゼは瞳を閉じた。

- To be continued -


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