Heroique


 チューリッヒはスイスにある上流階級の子女用の寄宿学校、図書室の片隅でエリザベート・ルクセンブルクは手許から顔を上げた。
 静かに勉強に打ち込んでいた、厳しい表情が綻ぶ。
 冷たい、氷のように見えたアイスブルーの瞳に優しい笑みが浮かんだ。

──月の光だわ。

 誰が弾いているのかしら。
 エリザベートは静かに本を閉じ、席を立って図書室を出た。

 ■
 
──これでは不可ない、それは分かっているの。

 でも、どれ程私が努力しても父のようなポロネーズは弾けない。

 自分を甘やかしては駄目、でも、私の指は気を抜くとついこの旋律を奏でてしまう。
 ……止めなさい。
 自らに厳しく命令し、演奏を止めたテレーゼ・クレイの表情は悲痛に満ちていた。
「……、」

──何とか、このポロネーズを弾き切らなくては不可ないのに、……父さんのように。

 そう、……あの人のポロネーズは素晴らしい。
 ……私にはあんな風には弾けない。

「どうなさったの? 途中で止めたりして」
 テレーゼの驚きようは無い。瞬時に鍵盤からピアノ室の入口へ向けた愛らしい大きな榛色の瞳が、更に大きく見開かれて動揺のあまり潤んでいた。口唇が小さく開き、かたかたと小さく震えた。
 ──いつの間に? ……聴かれていたのかしら。
 腕を組み、戸口の壁に凭れた少女はテレーゼと同じ、深緋色の学校の制服を着ていた。然し、すらりとした長身の彼女が着ると大分印象が違う。彼女は友好的な微笑を浮かべていたが、とてもテレーゼと同年代とは思えない大人びた美貌には、内向的なテレーゼをたじろがせ得る存在感があった。
「ごめんなさいね、驚かせる気は無かったのよ。ただ、とても美しい音だったので、つい惹かれてしまったの」
 そう云って少女はピアノに歩み寄って来た。
「……、」
 未だ緊張が解けず、言葉の見つからないテレーゼに向けられた彼女の笑顔は、まるで大輪の華が咲いたようだった。──未だ、少女特有の硬質さを残しながら、そこには確かに成熟した女の色香が仄めいていた。
「こんにちは、わたくしはエリザベート・ルクセンブルクよ。同じ学校なのに、今までお話した事は無かったわよね。貴女は?」
「……テレーゼ・クレイ、」
 ようやく、それだけ答えるとテレーゼは俯いて蜂蜜色の長い髪で表情を隠してしまった。
 折角挨拶したのに、と不愉快に思われるかも知れない。それは分かったが、愛想良く笑顔を造って返す、などと云うことはテレーゼには出来なかった。
 だが、エリザベートには気にした様子は無い。
「よろしくね、テレーゼ」
 恐る恐る顔を上げたテレーゼは、そこにエリザベートの優しい声と笑顔があったことに内心ほっとした。
「……よろしく、」
 ようやく、本当に小さな声とぎこちない表情だったが、笑顔を浮かべる事が出来た。

──可愛い人。

 勇気を振り絞った、と云った感じで微笑んでみせたテレーゼに、エリザベートは好感を持った。
 この人があのピアノを、「月の光」を弾いていたのだわ。
 静かで繊細な音、それでいて内面の情熱が哀しいほど胸に響く演奏だった。──本当に、この愛らしく、大人しそうな少女そのもの。
 このピアノ室から幽かに漏れたピアノと、それだけの短い遣り取りだけでエリザベートにはテレーゼの優しい心が理解出来た。
 静謐な中に確かに存在する情熱は、屹度この少女の優しさから来る愛情や悲愴、悩みや憤り。

──だけど。

「本当にごめんなさい、差し出がましいとは思うのだけれど、でも、一つだけ。構わないかしら?」
「……ええ、」
 テレーゼを畏縮させないよう、控えめに、然し笑顔を浮かべたままエリザベートはピアノの上の楽譜を手に取った。「月の光」が含まれるドビュッシーの「ベルガマスク組曲」の楽譜は、積み上げられた楽譜の内一番下に埋もれていた。
「どうして、楽譜を見ないの?」
 「月の光」のページを開いて、譜面台に置きながらエリザベートは云った。
「……、」
 何となく、分かっていた。そんな風に、テレーゼはエリザベートからも、楽譜からさえ──まるで見るのが怖いかのように──視線を反らした。
「勿論、暗譜はとても重要なポイントよ。楽譜を追いながら演奏すると云うことは、音符を一つ一つ音へと変えて行く作業ですもの。その作業をしている内は、本当に自分の内側から流れる音楽にはならない。でも、それだけに一つ一つの音を確認するのも大切なのよ。楽譜には、作曲者の全てが現れているわ。矢張り、それを無視しては不可ないわね、」
 驚いたようにテレーゼがエリザベートへと視線を向けた。──但し、未だ「月の光」の楽譜は視界に入れないようにしている。
 わたくしはね、とエリザベートは穏やかに言葉を続けた。
「演奏はしないの。でも妹が声楽をやっていて、それにわたくし自身音楽が大好きだから、ある程度は分かる。批評をさせたら煩いのよ。……誤解しないでね、あなたの演奏は本当に素晴らしい。難癖を付けたい訳じゃないわ、ただ、」
 エリザベートは楽譜の一点を指で押え、もう一方の手で鍵盤を押した。

──Do、

 そして、浮かない表情でようやく楽譜へ視線を向けたテレーゼに「ね?」と優しく微笑みかけた。
「ここのドは、Ces、Cではなくてフラットよ。屹度見落としてしまっていたのね。たかが半音だけれど、このCesはとても重要じゃない? だってフラットするかしないかでこのアルペジオの色合いが全く変わってしまうのだもの。勝手に変えてしまっては、ドビュッシーに悪いわ。……ね? たまにはこうして、楽譜を見て確認しなければ。……作曲者と、曲自体に敬意を評して」
 嫌味にならないよう、少し戯けた笑顔を造る事も忘れない。そんなエリザベートの優しい忠告に好感が持てない筈は無いのだが、然しテレーゼはやけに淡々とその点を確認し、頷いただけで楽譜を閉じて避けてしまった。
「……そうね、うっかりしていたのだわ、……どうも有難う、気を付けるわ」
 エリザベートの表情が曇った。矢っ張り、疎ましく感じさせてしまったかしら。でも、何故かしら、テレーゼがまるで「月の光」の楽譜自体を避けているように感じるのは。
「……ねえ、何故? あなたの演奏にはピアノや音楽への愛情が痛い程感じられるのに、何故そんなに楽譜を見るのを厭がるの?」
「厭じゃないわ、」
 ややムキになったように、テレーゼは云い返した。──自分自身を誤摩化すように。
 そして「月の光」を元通り一番下へ押し込み、代わりにショパンのポロネーズ集を取って広げた。
「ただ、今はこっちのポロネーズを先にマスターしなきゃ不可ないの。……そっちは、また今度ゆっくり読み直すわ」

 ──あら。

 エリザベートはそんなテレーゼの態度を訝った。どう考えても、テレーゼにはドビュッシーの方が似合うし彼女自身、この曲を心から愛しているように思えるのに。勿論、どんな作曲家の曲でも自在に弾きこなせるのがピアニスト。でも、今は何もそんなに焦る事は無いのに。
「何故? 確かにショパンも素敵、わたくしも大好きよ。でも、ドビュッシーをお座なりにしてまでその曲にこだわらなくても良いのではないかしら?」
「課題曲なの、次ぎのレッスンまでの」

──本当は、厭だった。

 「月の光」の楽譜を見ると、辛い事を思い出すから。

 ゲルハルト・クレイ。
 高名なピアニストにしてテレーゼの父親である。特に、ショパンを得意としていた。
 口煩い批評家達が、こぞって「本当のポーランド人よりもポーランド人のような威風堂々たるショパンだ」と絶賛した父のピアノ。果敢で自信に溢れたピアノを演奏する父の姿こそ、「英雄」のようだった。
 ──チューリッヒのこの寄宿学校へ身を寄せる前の記憶。
 ピアノに向かうテレーゼと、その傍らに立って厳しい目で彼女を見詰めている父の姿が、否応無しに甦った。

 ■

「なんてはっきりしない弾き方だ。何が云いたいのか分からないぞ」
 テレーゼはびくり、と肩を竦めた。ゲルハルトの腕が目の前に伸びてその肩越しに鍵盤を叩く。
「……、」
 何という力強い、芯の在る音だろう。
「弾いてみなさい」
 ゲルハルトは手を引いてテレーゼの傍らに腕を組んで真直ぐに立ち、静かにそう彼女に命じた。
「……はい、」
 テレーゼは緊張で背筋と指を強張らせながら、今ゲルハルトが模範演奏した部分を弾く。
 ──だん、と楽譜立ての端が叩かれた。
「……!……」
「何を聴いていた、ピアノをやっている癖に耳が聴こえないのか。もっとはっきりした、力強い音が出せないか」
「ごめんなさい、」
 弾き直しを命じられ、慌てたテレーゼの判断力を焦りが消し去った。畏縮し切った指先の神経は、ただ、もっとはっきり、もっと強く弾かなきゃ、と云う一種の強迫観念にだけ捕われて吃驚するような勢いで鍵盤を叩いてしまった。
「……、」
 一瞬、眉を吊り上げたゲルハルトの目に諦めの色が浮かんだと思うと、その表情は直ぐに嘲笑めいた物に変わり、軽蔑し切った冷めた声がテレーゼに降った。
「……女そのものの演奏だ。普段ははっきりせずにぼそぼそと低声で、しかも良く喋る癖にはっきりしろと云うとヒステリーを起こした金切り声しか上げられない。聴くに耐えん。お前の人間性がそっくり現れている」
 ゲルハルトはこうも云い加えた。「お前の母親も、そうだった」と。
「……、」
 テレーゼは顔を上げる事が出来無かった。然し、俯いてしまえば目の縁に滲んだ涙が零れそうで、奥歯を強く噛み締めて耐える彼女の視界がぼんやりと白くぼやけた。
 白と黒のコントラストが延々と続くピアノの鍵盤が、急激に遠近感を失って妙に平坦に見えて来た。ゲルハルトのよく通る声さえ、どこか遥か遠くの空間で反響しているように感じる。
「大体、」
 ゲルハルトが、脇に積み上げていた楽譜の中から一冊を引き抜いてテレーゼの鼻先に突き付けた。
 ──テレーゼの好きな「月の光」を含む、ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」の楽譜だ。
「普段からこんな小品、それも女々しいフランス人の曲ばかり弾いているから不可ないんだ」
 古い価値観を持った父は、フランスの現代音楽を嫌っていた。テレーゼは彼女の好きな音楽が、父に因って女性を蔑視するのと同じように「女々しい」と批判されるのを耐えられない気持ちで聞いていた。

 ■

「まあ、それでは今は受験の為に専門の先生についているのね」
 数日後の昼下がりだ。エリザベートは積極的にテレーゼを誘い、学内の食堂で昼食を共にしていた。
「御一緒して頂けると嬉しいのだけど」
 そう、誘い掛けるとテレーゼは俯きながらも嬉しそうに「歓んで、」と彼女に従った。
「ウィーンでピアノを学びたいの。……難しいのは良く分かっているわ、だけど、私は自分のピアノの本当の音に近づきたいの、……少しでも。ウィーンの音楽学校では、それに出会えると思うの」
「……、」
 エリザベートは珍しく、返事を返し損ねた。
 先日テレーゼと知り合った際、彼女の父親もまたピアニストである事を知った。
 音楽の才能の遺伝的な要素は大きい。その点では父親が演奏家と云うのは大変なメリットだが、同時にその親の存在は、往々にして子供には精神的な負担となる。
 高名な演奏家である親は、憧れの対象となり子供はそれに近づこうとする。同時に、成長の過程で必ずぶつかる壁がある。自分の演奏は、単に親のコピーでは無いのかと云う悩み。或いは反対に、自分は何故親のような演奏が出来ないのだろう、血が繋がっているのに、どうしてこうも違うのだろうと云う悩み。
 ……親子の繋がりは、どうしても断つ事は出来ない。然し、子供はどうにかしてそれから逃れたいと願う。結果として、親元を離れた遠い場所に身を寄せ、新しいスタートを切ろうと考える事は多い。
 ウィーンが音楽の都であり、音楽を学ぶ者の聖地である事は間違いない。然し、この内気な少女がそうまでしてスイスを離れてウィーンへ行きたいと願う理由は屹度そこにあるのだろう、とエリザベートは瞬時に理解した。
 だが、それは決して悪い選択ではない。何一つ確かな事など予言は出来ないが、ウィーンへの留学はテレーゼにとって大きな飛躍、──父という鎖を断ち切る切っ掛けを得る事になるだろう、と思う。
「良いわね。……実はね、わたくしももう志望は極まっているのよ」
「それはどこ?」
 テレーゼの表情が輝いた。エリザベートはその笑顔に満足を覚えながら、自分もまた同じく夢を持つ者だと云う事を打ち明けた。
「わたくしは、テレーゼとは逆ね。故国ドイツのハイデルベルク大学だもの。経営学を学びたいのよ」
「……凄いわ、」
 テレーゼの愛らしい口唇から溜息が漏れた。
 エリザベートの実家はドイツにあり、父は古城をそのまま利用したホテルを経営している。何故彼女がドイツからここスイスのチューリッヒまで、しかも上流階級のお嬢様ばかりの寄宿学校に送られて来たかと云うには深刻な理由があるのだが。──温厚な父が、激昂して娘を強制的に寄宿学校へ入れてしまった理由、エリザベートの素行不良、不純異性交遊──然し、自らの性欲はどうしても制御出来なかったエリザベートも、根は非常に真面目で意思の強さは並ではない。敢て難関の大学を目指して経営学を学び、父の跡を継ぐ意思は堅かった。その為に毎日の放課後には人知れず、独り図書室で受験勉強に打ち込んでいたのだ。
 志望は違えど、将来の為に努力しているのは二人とも同じ。性格は正反対だが、──否、だからこそ、か。エリザベートとテレーゼの友情は出会った瞬間から深い繋がりを得た。
 テレーゼは悩んでいる。
 あれから、エリザベートはピアノ室で練習に打ち込むテレーゼに付き添う事が多くなったが、始めて図書室で聴いた、繊細ながらも内面の情熱が迸るような演奏は以後聴かれなかった。恐らく、エリザベートという他人の目の存在を意識しているからだろう、その演奏はぎこちなかった。
 無理に、力強い音を出そうとしているのがエリザベートには分かる。
 多分、父を過剰なまでに意識しているのだ。──心優しいテレーゼの良さを抑圧して殺してしまうまでに強い、強迫観念が存在している。
 どうしたら、彼女を自由にしてあげられるだろう? と自らはピアノ室の隅に置いた椅子に掛けて参考書を読みながら、エリザベートは常に摸索した。
「お帰りなさい、テレーゼ」
 休日には市内に住む教師の許へレッスンに通っているテレーゼを、エリザベートは寄宿舎のエントランスで迎えた。
 テレーゼは楽譜の入った鞄を胸に抱え、沈んだ表情のままエリザベートに微笑みだけで応えた。

──あまり順調では無かったみたいね。

 彼女の表情からエリザベートは本日のレッスンの成果を推察した。
 だからこそ、思い詰めないよう、また気分も新たに練習に打ち込めるようにフォローしてあげなくては。
「どうだった? レッスンは」
「もう駄目、全然駄目よ。……いつもと同じ、何が云いたいのか全然分からない演奏だと云われたわ。そんなピアノなら弾かない方がましって。……こんなに進歩しない生徒は初めてだとも云われたわ」
 快活に微笑みかけたエリザベートに対し、テレーゼは小さく答えた。
 そのあまりに淡々とした口調が、今のテレーゼがどれ程自己嫌悪に沈み込んでいるのかを象徴している。
「確りなさいな、そんな事で落ち込んで居てどうするの。進歩が無条件に良い事なんて云うのはね、二十世紀特有の感性なのよ。既に終わりかけた考えだわ。あなたは自分の音楽を摸索している、それで良いじゃないの」
 頑張って、と云ってあげるのは簡単な事だ。だが、それでは結局何の励ましにもならない。殊更強くテレーゼの背中を叩いたエリザベートに、ようやく彼女も明るい笑顔を見せた。
「どういう事? それは」
「先へ進むばかりが正しいとは限らないと云うことよ。常識なんて時代と共に変化するものだわ。結局、良い、悪い、なんて多数派か少数派かの違い。わたくしはテレーゼはそのままで良いと思うわ。技術的には基本練習を確りやっているのが分かるし、どれだけ早く曲をマスター出来るか、ではなく時間を掛けて自分の音楽で歌おうとしている、素晴らしいことよ」
「……有難う、エリザ。……でも、今は時間が無いの……、試験もあるし、……ここで先生にまで見放されたら私、もう終わりだわ」
 エリザベートはまた表情を曇らせたテレーゼの肩に手を置き、顔を上げた彼女が首を傾ぐとくるり、と身体の向きを変えさせた。きょとん、としているテレーゼの肩越しにエリザベートが指した校舎の窓、──そこは、ピアノ室だ。
「エリザ?」
「だったら、仕方ありませんわね。ここは一つ、わたくしも心を鬼にしてテレーゼにポロネーズを弾かせてみせますわ。早速練習よ。泣いても駄目よ。そうと極まればわたくし、誰よりも怖い先生ですもの」
「そんな、エリザにそこまでして貰っちゃ……、あの、厭では無いの、ただ、……分からないわ、どうして私にそんなにしてくれるの?」
「云ったでしょう? わたくしはあなたのファンなのよ。こんなに素晴らしいピアニストの演奏を、聴衆が聴く機会を持たないまま埋もれさせるなんて惜し過ぎてよ!」
 エリザベートは力強く、あの大輪の華のような笑顔を見せた。テレーゼの顔に朱が走る。
「……御礼のしようが無いわ」
「御礼ですって? ……そうね、わたくしだけの為にドビュッシーを弾いてくれる、と云うのは如何かしら。……何にせよ、今はポロネーズをマスターしなくてはね。あなたならきっと、誰も聴いたことのない、見たこともない『英雄』が弾けるわ。先生や皆を驚かせてあげましょう。……さあ、練習よ、練習!」
 女学生らしい、華やかな笑い声が上がった。穏やかな陽光の中、中庭を校舎のピアノ室へ向け、それぞれプラチナブロンドと、蜂蜜色の髪を靡かせて駆ける少女二人から。

 ■

 すっかり日も落ちたピアノ室で、鍵盤に向かうテレーゼの横にはエリザベートが楽譜を追いながら付き添っている。時折、優雅な仕種でエリザベートの白い手が差し伸べられて演奏が止まる。
「とても良い、三拍子に上手く乗れているわね。でも、この曲はほら、良く最初の指定を見て。Maestoso、威厳を持って、厳かに。無理に堂々と虚勢を張る必要は無い。その点は良いわ。ただ、ワルツとは違うのよ。……ねえ、少し見て」
 そしてテレーゼの注意を喚起し、エリザベートは深緋色のスカートの裾を翻してワルツのステップを踏み、テレーゼを見遣った。
「……ね? これは違うと思わない?」
 そうね、とテレーゼは流れるような優雅な身のこなしにまだ少し意識を奪われたまま頷いた。
 エリザベートは今度は反対に背筋をすっと伸ばし、屹然とした足取りで歩幅を大きく取ってピアノの前を歩く。
「……ほら。これがMaestosoの三拍子よ。eins、zwei、drei、eins、zwei、drei、eins、zwei、drei。毅然とね」
 テレーゼは「ふむふむ」、と云うように小さく首を縦に振り、「eins、zwei、drei、eins、zwei、drei、……」とエリザベートの足取りを思い出すように口ずさんだ。
 あまりに真摯なテレーゼの様子を微笑ましく眺めながら、エリザベートもまた「eins、zwei、drei、eins、zwei、drei、」とそれに乗じて指先でリズムを取った。テレーゼはエリザベートの手の動きを見詰めながら、その動きに合わせて先程の箇所を奏で出す。
「……こうかしら、」
「そうね、良いわ、続けて。……あ、其処のクレシェンド、」
 テレーゼは直ぐにエリザベートの言葉を聴き洩すまいと耳を澄ます。
「ここまでは云ってみれば前奏よ。そして、今から『英雄』が登場するの。このクレシェンドは、ただピアノからフォルテへ移行する為の繋ぎでは無いと思わない? これから、何かが始まるの、そこへ向かって行くのよ。……それがどんな気持ちか、それはテレーゼ次第よ。どう弾いてみたい? 何を表現してみたい? それを良く考えてみて。イメージして」
「……イメージ、」
「……ねえ、テレーゼ、」
 エリザベートはそこで、ピアノの蓋をそっと閉じた。そしてテレーゼに向かって人さし指を立て、囁くように云う。
「これは提案なのだけど、一日程、ピアノを弾くのは休んでみない?」
「でも、練習を」
 慌てたように椅子を立ち上がったテレーゼを、エリザベートは落ち着いて制止し、ピアノの蓋に身を預けるように凭れた。
「勿論。練習はするわよ。でも、ピアノを弾くとなると色々な事を考えてしまうわ。だけど音楽に一番大事な事って、何かしら。旋律、メロディよ。そして、そのメロディをどういう風に歌いたいか。ねえ、今日はピアノは止めて、メロディを口で歌ってみない?」
「口で?」
 意外そうに、テレーゼが目を、その大きな愛らしい榛色の瞳を瞬かせる。
「そうよ、……こう、」
 エリザベートはその姿勢のまま、軽く上げた片手を振ってリズムを取りながらポロネーズのメロディを口ずさんだ。
 よく響く、澄んだ、非常に美しい声だった。──当然とも云える。エリザベートと血を分けた妹は声楽家を志す才能ある歌い手なのだ。
 テレーゼの瞳に再び陶然とした熱が現れた。
「ほら、歌って、テレーゼ。わたくしが歌っても意味が無いわ。あなたが歌うのよ。そして、このメロディをどういう風に、どんな気持ちを込めて歌いたいのか、自分自身が理解するの」
 エリザベートの歌を聴いた後では、テレーゼはやや恥じらうように俯いていたが麗らかな笑みの現れた声でエリザベートに再度促され、躊躇いながらも一緒になって旋律を歌い始めた。やがて、エリザベートが歌を止めてしまってからも、テレーゼは一生懸命に歌い続けた。
「……、」
 エリザベートは身体の横で腕を組み、穏やかな微笑を浮かべてそんなテレーゼを見守っていた。

──なんて真摯なのかしら。

 目を細めたエリザベートと、手を上げて音の高低を取りながら歌を続けるテレーゼの視線がかち合った。
「──……、」
 テレーゼが微笑む。心からの、晴れやかな笑みだった。
 エリザベートの笑顔を大輪の華とすれば、テレーゼの微笑は清楚な自然の中の華だ。
 それは屹度、エリザベートの助言によって、ピアノを弾くことで否応無しに向き合わされてしまう強迫観念から解放され、伸び伸びと音楽を歌えている、という満足感と感謝の意の現れだったのだろう。
 ──だが、……。
「……、」
 その瞬間、エリザベートはぐらり、と感覚が傾くのを感じた。
 
──何なの?

 思わずピアノに手を付いて身体を支え、実際にその音が部屋に響きそうな程激しく打つ鼓動に戸惑いながら胸を押さえた。
 ──痛い。
 テレーゼをまともに見られない。彼女の目だけではない、蜂蜜色の美しい髪、歌をうたう愛らしい横顔、制服を通して見える華奢な肩や柔らかい胸の線や小さな腰が、胸に熱い大気のように突き刺さった。

──どうしてしまったの、……つい、先刻の今じゃないの、

 鼓動は刻々と早く、高く打つ。強く押さえても留まる所が無い。

──駄目、
 
 これ以上テレーゼの傍に居ては駄目。
 殆ど直感でそう悟ったエリザベートは、ピアノで支えていた身体を立て直そうとしてふらり、とよろめいた。
「エリザ?」
 テレーゼは直ぐに歌うのを止め、気遣わしそうにエリザベートを覗き込んでいる。
「どうしたの? ……具合でも悪い?」
「……、」
 顔に伸びて来たテレーゼの手を慌てて押し止め、エリザベートは額に片手を当てた。
「……いいえ、大丈夫よ。少し、疲れてしまったみたい。……申し訳ないけれど、先に息ませて頂いても構わないかしら?」
「それは勿論よ、……ごめんなさい、エリザ、つい私……、エリザの事も考えないで」
「本当に大丈夫なの、あなたは悪くないわ。……では失礼するわね、あなたは頑張って、」
「部屋まで送るわ」
「大丈夫よ!」
 思わず張り上げてしまった悲鳴のような声に、テレーゼが肩を竦めた。
「……ごめんなさい、……つい。……本当に気にしないでね、お休みなさい、テレーゼ」
「……エリザ、……お休みなさい」
 テレーゼの挨拶を背中にして、エリザベートは殆ど逃げるようにピアノ室を出た。
「……、」
 後に取り残されたテレーゼは、それほど疲れるまで練習に付き合わせてしまった自分への責任感と、そうしてまで付き添ってくれたエリザベートへの感謝を感じて俯いた。
 ──そして、そんな感情をそのまま投影するように、またポロネーズを美しい声で歌い出す。
「……、」

 ■

──ああ。

 何て事だろう。
 校舎を出て寄宿舎の自室まで逃げるように駆け込んだエリザベートは、真直ぐに寝台へ飛び込んで俯せた。

──まさか、こんな事になってしまうなんて。

 あの時のテレーゼの美しい笑顔。……いいえ、あれはただの切っ掛けの瞬間に過ぎないわ、屹度、わたくしは前から、……図書室で初めてあのピアノを聴いた時から、……。

──好きになってしまったのだわ、……テレーゼの事。

 ■

「……、……、……、」
 楽譜を片手に、テレーゼはポロネーズの旋律を歌い続ける。
 もう片方の手はリズムを取りながら、──そう、先刻エリザベートが見せた、毅然とした足取りのリズムを思い出しながら、そのイメージに合わせて。
 
──ここまでは云ってみれば前奏よ。そして、今から『英雄』が登場するの。このクレシェンドは、ただピアノからフォルテへ移行する為の繋ぎでは無いと思わない? これから、何かが始まるの、そこへ向かって行くのよ。……それがどんな気持ちか、それはテレーゼ次第よ。どう弾いてみたい? 何を表現してみたい? それを良く考えてみて。イメージして。

「……、……、……、」

 メロディは「英雄」の主題へ向かうクレシェンドに差し掛かった。
 今、テレーゼの視線の先にははっきりとしたイメージがある。
 
 テレーゼにとっての「英雄」。
 それへ向かうクレシェンドは「彼女」への憧れ。

──弾けるわ。

 楽譜を置き、テレーゼは両手を胸に当てた。
 テレーゼの父は、兄ばかりを偏愛していた。その兄は結果として父の汚点ばかりをきれいそっくり受け継いだ人間になってしまったが、それでも恐らく、テレーゼは兄が羨ましかったのだ。自分も父に認めて貰いたい。自覚せずとも心の奥底で切実に願い続けた事が、テレーゼのピアノを無理に父に似せようとさせていたのだ。
 だが、たった今、彼女は自分がその強迫観念から解放された事をはっきりと悟った。
 弾ける。そう、確信が湧いた。
 力強い、奏者自身が「英雄」そのものの父の演奏では無い。
 また、彼を真似ようと、或いは過剰に意識して別物に変える事に捕われたぎこちない演奏でも無い。
 
──私の「英雄」ポロネーズが。

 ■
 
「エリザ!」
 午前の授業が終わった後、校舎内は教室の移動や昼食を摂るべく食堂へ向かう少女達の深緋色の制服で混雑する。
 その中に一際洗練された、すらりとした長身に豊かなプラチナブロンドを背中へ靡かせた親友の姿を見出したテレーゼは大きく手を振って駆け出した。
「探したわ、エリザ。ねえ、聴いて! 見つかったのよ、私のピアノが! 私だけの音楽、私だけの『英雄』ポロネーズ。あなたのお陰よ、エリザ!」
「……、」
 エリザベートはぼんやりとしている。常に毅然と優雅に、気高く意思の強さを瞳に宿していたアイスブルーの瞳には、人が変わったように生気が無い。だが、高揚したテレーゼはそれには気付かずにエリザベートの手を確りと両手で握り締めて、熱っぽく語り続けた。
「本当にエリザのお陰、昨日、一日中歌い続けてやっと分かったのよ、今はもうピアノで弾いた時の音、そして弾いている私の姿、その時の指先や腕の感覚まではっきりとイメージできるわ。まだピアノでは弾いてないの、今日これから弾いてみる積もりよ。でも、屹度大丈夫だと思うの。……そうしたら、是非最初にエリザに聴いて欲しいわ、先生よりも誰よりも先に!」
「……、」
 そこでエリザベートは初めて、心地よさを感じていた指先がテレーゼの手に包まれている事に気付いて慌てて身を引いた。
「エリザ?」
「……、ええ、そうね、……楽しみにしているわ」
 テレーゼは怪訝そうな顔をしたが、直ぐにまた笑顔に戻った。
「今日はお昼を食べている時間も無いわ、今からでも練習したいの。明日、明日の放課後ではどう? 聴いて呉れる?」
「……勿論、分かったわ、明日の放課後ね」
「ええ、じゃ、ピアノ室で。……エリザ」
 そうしてふらふらとテレーゼから離れかけたエリザベートを、テレーゼは流石に不安そうに呼び止めた。
「ねえ、本当に大丈夫? ……身体の具合が悪いのじゃない? 何だか、エリザらしくないわ、……元気が無い」
「大丈夫、それより練習、頑張って頂戴」
 気取らせまいと、エリザベートは弱々しくも微笑んで軽く手を振った。
「……エリザ?」
 取り残されたテレーゼは呆然と覚束無い足取りのエリザベートを眺めていたが、──今のテレーゼには「英雄」の姿が心の中に見えているのだ。ポロネーズの旋律が頭に響く。
 そうだわ、練習しなきゃ。エリザに歓んで貰う為にも、確りと。

 ■
 
「……、」
 放課後も、エリザベートはテレーゼを避けるように真直ぐ宿舎へと帰った。自室の机で本を広げながら、視線は字面を絵を眺めるように追うだけで内容は頭に入らない。
 図書館へ行かなかったのも、分かっていたからだ。あの部屋にはピアノ室の音が響く事を。

──気付かせては不可ないわ。

 この気持を、テレーゼには。
 ただでさえ内気で大人しいテレーゼが、事も在ろうに女性から、それも親友と思って親しくしていたエリザベートから恋心を打ち明けられたら、一体どれほど動揺するだろう。特に、今はピアノのレッスンや試験の事で頭が一杯、大切な時期のテレーゼにショックを与えては不可ない。
 気付かせては不可ない。
 今までのエリザベートは、性的に奔放でこそあったが、それは悪く云えば行き擦りの相手であり、心から恋した相手では無かった。相手の気持ちを痛い程悩むまでの恋愛感情は、初めてだった。
 だからこそ、──。

──絶対に、テレーゼに気付かれては駄目。

 エリザベートは強く手を握り締め、自らにそう厳しく命じた。
 約束の放課後、ピアノ室へ向かうエリザベートの足取りは重かった。
 行きたくない。……テレーゼの顔を見たくない。
 この恋心は決して悟らせまいと極めた時から、テレーゼの姿を見る事がエリザベートには耐えられなくなった。
 彼女の愛らしい笑顔や声を思い出すだけでも、つい彼女へ身を寄せたくなってしまう。その都度、駄目だ、この気持は隠し通さなければ、そして出来るならこんな気持ちは忘れてしまわなければ、と思い直すのは辛かった。
 ──身体が重く感じる。
「……、」
 そんなエリザベートに反して、既にピアノに向かっていたテレーゼの笑顔は晴れ晴れとしてあまりにも眩しかった。
 丁度、折からの夕陽をガラス張りの壁を通して背後に受けたテレーゼの姿はあまりにも美しい。
 エリザベートに来てくれた礼を述べると、直ぐにテレーゼは「英雄」ポロネーズを弾き始めた。
 つい先日まで、エリザベートが傍に居る事で他人の目を意識して強張った演奏をしていたのが嘘のようだ。
 彼女の音楽、歌。彼女の「英雄」への感情が伸びやかに響く演奏だった。
 その感情があまりにも純粋であるだけに、エリザベートはまともに聴くことさえ出来ずに始終、焦点の合わない視界を持て余してぼんやりとしていた。
「……どう、かしら」
 演奏を終えたテレーゼは、それでも矢張り彼女らしく緊張気味に、遠慮勝ちに意見を求めた。
「まだ、充分弾き込めてはいないと思うの。……でも、私の歌いたいポロネーズは、見つかった積もりよ」
 朱の差した顔を俯け、小さな声でそうテレーゼは云う。満足気な微笑には、エリザベートへの感謝の気持が溢れていた。
「……良いんじゃない、」
 ようやく、エリザベートが口にした言葉はあまりにも素っ気ない物だった。
 テレーゼの表情がさっと曇りを帯びる。
「……エリザ」
「良かったわ、何より、あなたがこんなにも伸び伸びとしたピアノを弾けるようになって。……この調子で頑張って頂戴ね」
 感覚がぼんやりしている。──言葉も、感情も、押し殺したエリザベートの内からは全てが淡々と流れ出た。
 それじゃ、とようやく聞き取れる程の低声で述べ、エリザベートはくるりと踵を返した。
「待って、エリザ、」
 テレーゼは慌てて立ち上がり、追い縋る。
「何処か気に入らない所があった? だったらはっきり教えて欲しいの、大丈夫、私はもうそんな事で落ち込まないし、それを克服できるように屹度努力するわ。悪い所でも、何でも教えて欲しいの」
「……そうでは無いわ」
「……嘘、」
 だって、今までなら欠点は欠点としてはっきり指摘して呉れたのに。こうすればもっと良くなる、と的確なアドバイスも含めて。

──急に、どうして? あまりにも酷い演奏だったから、呆れてしまったの?

──そんな目で見ないで、

 テレーゼの訴えるような、激情に駆られてきらきらと輝く榛色の瞳があまりにきれいでエリザベートの胸が締め付けられるような痛みに歪んだ。
「ごめんなさい、何も云えなくて。……でも、あなたはそのまま続けて。本当に、良かった」
 エリザベートはテレーゼを振り切ってピアノ室を飛び出した。

──エリザ!

 テレーゼの悲痛な声が追う。エリザベートは廊下を駆け抜けた。

──止めて、……つい、打ち明けたくなってしまうじゃないの。
 
 あなたの為を思えばこそ胸に秘めているのに。
 それが、テレーゼへの、エリザベートなりの最大の愛情だ。

──……どうして。

 私の憧れ、「英雄」、──ようやく見つけ出したのに、その途端に遠離って行ってしまうなんて、──あんまりだわ。

 エリザベートとテレーゼ、二様のお互いへの想いは、実際よりも遥かに遠い距離を隔てたまま交錯し続ける。

- To be continued -

※この小説は株式会社テラネッツが運営するオーダーメイドCOMで作成されたものです。


目次へ