<安らぎの宿シュミット屋 第0話 〜新しい日常の始まり >

オリジナルノベル

文:ALF



「ま、ありがちな話ですから良いでしょう。本来なら、私がこうやって窓口に来る前に対処しておくべきですけどね」
「は、はい‥‥少々お待ち下さい。今、空室のありますホテルをお探ししますので‥‥」
 旅行会社の客対応窓口の前に立ち、その女性旅行者はやや皮肉混じりに言った。
 それに応対する旅行社の女子社員は、明らかに慣れていない様子でパソコンをいじり、ホテルの空室を探している。
 その日‥‥旅行社の客対応窓口には、今日窓口に立ったばかりの新人社員が座っていた。
 で、その新人は、お忍び旅行中のエリザベート・ルクセンブルクに応対する事になる。
 エリザがとったはずの部屋に既に他の客が入っていた。ダブルブッキング‥‥珍しい話ではない。何処にだって転がっているような話だ。
 それは、新人にとってはこれから始まる仕事に日々において、早くも訪れた試練といった所。そして、もう一方のエリザにとっては、旅先での小さなトラブル‥‥
「まだかしら? 慌てないで落ち着いて仕事してくださいましね」
 エリザは、腕時計にチラと目をやってから新人に問う。
 エリザは旅の開放感もあって、普段に比べたら随分と寛大に対処している。
 これが、例えばエリザの実家の従業員の不手際だったら、もっと容赦ない言葉を投げ掛けていた事だろう。恐らくは、この新人程度では二度と立ち直れなくなるくらいの。
 しかし新人は、客を待たせているという事に関して気を焦らせながら、必死になって開いているホテルを探していた。
 だがホテルは何処も満室らしく、なかなか開いている場所は見つからない。無為な時間が過ぎていく‥‥その間、エリザは旅行社に置かれた観光案内のパンフレットを読んで時間を潰すより他無かった。
 そして、いい加減、エリザがホテル業を営む実家のコネを使って自分で探そうかと思い始めた頃、新人はようやくそれを見つけだす。
「あ、ありました! ここが開いてます!」
 顔を上げ、傍らのプリンタから吐き出された紙をエリザに渡した。そこには、ホテルの名前と住所、電話番号が書かれている。
「やすらぎの宿シュミット屋? 和風ホテルって‥‥」
 ドイツに和風ホテルだ等と珍しい。
「良いわ。面白そうだし‥‥ね」
 これ以上、貴方に任せると日が暮れそうだから、等とは言わずに置いて、エリザはサービスのつもりで新人に微笑みかけてやった。
「ありがとうございます! では、予約手続きをしておきますね!」
 新人は、それを受けて安堵の表情を浮かべる。
『和むと可愛いわね‥‥』
 エリザは心の中で呟き、終業後にでも声をかけてみようか等ととりとめもなく思いながら、とりあえずは礼を言って旅行会社を出ていく。
 その背を見送った新人。と、その背後からベテランの同僚が声をかける。
「揉めたのか? まあ、何事も経験だからな」
 だらしのない中年親父丸出しの同僚‥‥と、同僚は、新人の前にあるモニタを見て顔をしかめた。
「おい、ここを紹介したのか?」
 モニタに映し出されているのは、件の、やすらぎの宿シュミット屋。
 何か失敗をしたのかと不安そうな顔をする新人の前で、同僚はどう説明したものかと首をひねっていた。



「ここ‥‥ね」
 一通り予定の観光を済ませ、ホテルについたエリザは、その予想外の外観に足を止めた。
 土塀でぐるりと囲われた、かなり広い敷地に立てられた2階建ての建物。きっと庭園があるのだろう、建物は敷地面積の半分も使っていない。
 その外観は確かに‥‥和風だ。
 しかし、門の所に無意味に門松が置いてあるのは何故だろう? それに、辺りにやたらと日の丸の旗が飾られているのは? そして、門に取り付けられた看板に『神風』と達筆で書いてあるのは?
「‥‥」
 エリザは首を傾げながら門をくぐる。と‥‥すぐさま、声がかけられた。
「アニョハセヨ」
 入ったところにいたのは、一人のアジア人男性だった。アジア人だというのは、一見して‥‥そして、かけてきた言葉から、日本人ではないなと思ったからである。
 板前らしき服装の彼は、箒を持って玄関前の掃き掃除をしていた。ただ、その箒の掛け方は非常に雑で、かなりいい加減ではあったが。
「何の用ニダか? 電気代、ガス代、水道代の支払いならお断りニダ。旦那に直接言ってくれニダ」
 どうやら、エリザが客であるという発送は浮かばなかったらしい。
 かなり、頭にくるものを感じたが、エリザは努めて冷静に言い返した。
「あ、あの‥‥今日、予約を入れたと思うんですけど」
「おお!? 本当に客が来たニダか!?」
 突然、小躍りして喜ぶ男。
「やったニダ! 旦那からボーナスゲットニダ!」
「は?」
 訳が分からずに声を漏らすエリザに、男は喜色満面で、聞かれもしないのに喋りだした。
「旦那は、客が来ない方に賭けたニダ。ウリは無理矢理、来る方に賭けさせられたニダが、それでも賭けは賭けニダ」
 客の来る来ないで賭け‥‥
 どういうホテルなんだと、エリザは頭が痛くなるのを感じる。
 しかし、今日はここに泊まるより仕方がない。
 エリザは深く溜め息をつくと、訳の分からない踊りを踊って喜んでいる男の袖を引いて、注意を無理に自分に向けさせてから言った。
「良いかしら? 部屋に案内して欲しいんですけど?」
「ああ、ついてくるニダ」
 男はそう言うと、エリザの荷物を持とうともせずにさっさと建物の中へと入っていく。
「何なのよ、このホテル‥‥」
 呆れ、文句を言いながらエリザは荷物を持ってその後についていった‥‥
 エリザが通されたのは、埃っぽい畳敷きの和室。いつ掃除したのかもわからないその部屋で、エリザが最初にした事は掃除だった。
 掃除が終わり、エリザは用意されていた浴衣に着替え、部屋に飾られた日本刀とずいぶん昔の小銃(三八式歩兵銃というらしい)、昭和天皇陛下御尊影と書かれた眼鏡をかけた男の写真、そしてやっぱりやたらと飾られている日の丸を見ながら、そのどうも和風を間違っている内装に頭を痛めていた。
「‥‥とんでもない所に泊まったらしいわね」
 そう、本当に、とんでもない所に泊まったものだ‥‥
 従業員はあのアジア人‥‥パクとかいう男以外には居ないらしい事がわかった。
 何でもパクに聞いた所によると、経営者だという男が、このホテルを趣味だか裏金対策だかで作ったは良いが、その男は外回りの荒事にしか興味がない為にホテルは放りっぱなしとなり、どんどん寂れていったのだという。
 そして、他に行き先の有る者はどんどん出ていき、最後に何処にも行き場のないパクだけが残った‥‥と。もっとも、パクの中では「旦那様に頼まれて仕方なく残ってやった」と誤変換されているようだったが。
「どんな男よ‥‥顔が見たいわ」
 その旦那様‥‥どうも、地回りのような事をやっている男らしい。多分、ろくな男じゃないだろうと思うが、自分の周りには居そうにない男に少々興味がそそられる。
 と‥‥そんなことをぼんやり考えていると、突然、何の前触れもなく部屋のドアが開けられた。
「なっ!?」
「居るニカ? 食事ニダ。」
 思わず身構えるエリザ。そこに立っていたのはお膳に料理を乗せた物を持つ、パクだった。
 怒鳴りたい気分で、エリザはパクに聞く。
「‥‥ここには、プライバシーって言葉はないんですか?」
「ん? そんな名前の料理はないニダが‥‥どれも、他じゃ、ちょっと食べられない料理ばかりニダ」
 冗談なのか本気でわからなかったのか、ともかくパクはそう返す。
 そして、お膳をエリザの前に置き、それから勝手に料理の皿の蓋を開けると、目の前で勝手に中身を混ぜだした。もちろん、エリザには何の断りもない。
 そうしてからパクは、一仕事終えたとでも言うかのように笑顔で部屋を後にしていく。
 エリザは、声をかける気も失せてその背を見送った。
「何なのよ‥‥」
 呟き、エリザはお膳の上を覗き込む。お膳の上に置かれた料理は、一見して何やら変だった。
 まず、全ての食器が変。何だか、金属製のボールみたいな皿と、金属製の箸が置かれている。
 そして料理に目をやってまず目に付くのは、皿に山盛りになっている真っ赤な野菜。その名もキムチ。
 これがそのどぎつい色と偉容で視覚を引き付けると、同時にニンニクの臭いと発酵食品の臭いを辺りに撒き散らして、否応なく存在感をアピールしている。
 それから、先ほどパクが掻き混ぜていったのはご飯と野菜の混ぜご飯だろうか? それにもコチジャンが乗っていたらしく、ほんのり赤く染まっている。
 そして、刺身‥‥なのだろうか? 白身の魚をぶつ切りにしたような物が、見た目もへったくれもなく皿に乗せられている。その脇には、醤油ではなく、赤いソースが入った小皿がついていた。
 エリザは、とりあえず箸先でソースをつつき、少量を舌に乗せる。すぐに、焼け付くような辛さが舌先に広がった。
「唐辛子のソース? ‥‥こんな事したら、魚の繊細な味が全部殺されちゃうじゃない」
 正確にはコチジャンだ。それを白身魚につけて食べる。もちろん、魚の味なんて物が欠片ほどでも感じられるとは思えない。
「一体、何なの? 唐辛子ばかり‥‥」
 どの料理も綺麗に赤色だ。
 ただ一つ赤くないのは、お膳の隅で固形燃料コンロの上で煮えてる、何かの肉と野菜が入っている小さな鍋。
 エリザは試しに肉片を口に入れてみる。食べた覚えの無い味が‥‥個人的にはあまり好ましい味ではない。
「これ‥‥和食じゃない」
 結論を出してみると、何だか別の国の料理を無理矢理に和食だと言って出された様な気分だった。
 エリザは、無言でその場に立ち上がり、そして部屋の外へと通じるドアを見る。
「‥‥ここまでダメなホテル。生まれて初めて見たわ‥‥」
 こうなれば何か一言いってやるつもりで、エリザは部屋を出た。
 そして、一応は料理人なのだから厨房にでもいるのだろうとあたりをつけ、そちらの方へと歩いていく。
 やがて辿り着く厨房‥‥遠慮する事もなく、エリザはその中へと足を踏み入れた。
「ごめんなさい。料理長、いるかしら?」
 厨房に入った瞬間、先ほどの食事の中にあったキムチの濃厚な匂いと、何やら血なまぐさいような匂いがエリザを襲い来、その足を止めさせる。そして、
「誰ニカ?」
「ひっ!?」
 姿を現したパクに、エリザは小さく悲鳴を上げた。
 料理長の白いエプロンには生々しく、点々と血がついている。手に持ったバットからは、ポタポタと血が落ちていた。
「何を‥‥してたの?」
「何って、料理の下ごしらえニダ。こうすると美味しくなるニダ」
 恐る恐る聞くエリザになんと言う事もなく答え、料理長は厨房の奥の小部屋に目をやる。
 そこには、犬くらいの物が入りそうな大きさの布袋が天井から吊り下げられており、ゆっくりと小さく揺れていた。
 本来は白いらしい布袋は、真っ赤な血に濡れて半ばから下が染まっている。そして、袋の下からは、今も尚、血が滴り落ち続けていた。
「りょ、料理って‥‥」
「お客さんも食べた筈ニダ。こうすると美味しくなるニダよ」
 自信満々に言い放つパク。その言葉には一切の嘘や誤魔化しはない。真実があるかどうかは別にして。
「何て物を食べさせてるのよ! 和食でも何でも無いじゃない!」
 一口、いただいてしまったあの肉の正体を薄々悟り、エリザが声を上げる。
 それを聞いた次の瞬間、パクは瞬時に顔色を真っ赤に変えて怒鳴っていた。
「日式料理なんかと一緒にするなニダ! あれは、紛れもないウリナラ料理ニダ!」
「和風旅館で、どうしてそんな物が出るの!?」
「イルボンの文化は全て兄の国であるウリナラが伝えた物ニダ! いわば、日式料理なんてウリナラ料理のデッドコピーに過ぎないニダ! ウリナラマンセー!」
 何処かからか受信した電波をそのまま口から吐き出しているみたいなパク。エリザはその前で大きく息を吸い込み‥‥そして、パクの声を掻き消さんばかりの声で叫んだ。
「黙りなさい!!」
「‥‥アイゴー‥‥」
 パクが黙り込む。
 エリザが声と同時に、その辺から適当にとって投げつけた物‥‥フライパンが顔面にヒットしたのが大きかったかも知れない。
 ともかくエリザは、顔面を押さえて転げ回るパクの前に仁王立ちになると、怒りの情を殺すこともなく言い放つ。
「私が言いたいのは料理の事だけじゃないわ。あの内装は何? 和風って日本風なら良いって訳じゃないのよ? 大戦時代じゃあるまいし‥‥」
「内装は旦那様の趣味ニダ。ウリだって、日帝の写真なんか見たくないニダよ」
 ようやく顔の痛みを我慢できるようになったのか、パクがブツブツと抗弁する。
 そんなパクを完全に無視し、エリザは切り捨てるかのように言い下す。
「何にしても、こんな最低なホテルに泊まったのは生まれて初めてですわ」
「あんたには何の関係もないニダ! こっちは、文句言われる筋合いなんて無いニダ!」
 パクは再び叫き始める。だが、客には苦情を言う権利ぐらいはあるはずだ。どう考えてもパクの言っていることはおかしい。
 エリザは携帯電話を取り出し、素早く番号を押した。夜ではあるが、電話はすぐに先方と繋がる。
「‥‥エリザベート・ルクセンブルクです。挨拶は良いわ。今すぐに、貴方の所のスッタフを派遣してもらいたいの。ええ、全て今すぐに」
 電話をかけたのは、実家のホテル関連のスタッフ派遣会社。
 そこまで言ってから、エリザはパクを軽く一睨みし、付け足す用に言った。
「それから、日本料理の専門家を一人お願い」



「ほう?」
 ハンク・シュミットは、数日ぶりに帰ってきた自宅‥‥シュミット屋を見て、小さく呟いた。
 何やら、大勢の人々が忙しく出入りしている。
 和服を着た若い女性や、建築関係者など‥‥まるで新装開店の準備でもしてるかの様だった。
 実際、装飾の数々が取り外され、勝手に何か違う物に置き換えられたりしているので、新装開店の準備というのは正しいかも知れない。
 そんな騒ぎを見ながら、シュミットは何一つ動じる事無く門をくぐり、そして奥に向かう。
 そこでシュミットは、人々に指示を与えている若い女‥‥エリザの姿を見た。また、エリザもまたシュミットの存在に気付く。
「さてと‥‥説明してもらおうか」
「貴方がここの主人?」
 エリザは一応、聞くまでもない事を聞き、シュミットの無言の反応を見てその答えを確信した。
 そして、少し悪戯っ気を出したエリザは、蠱惑的な笑みを浮かべるとシュミットの胸に手を当てて言う。
「何処か、落ち着ける場所で話しましょうか」
「‥‥では、俺の部屋にでも行くか」
 誘いに乗ったのか、それとも何かを企んでいるのか‥‥シュミットは狡猾そうな笑みを浮かべると、エリザの先に立って歩き出す。
 やがて、建物の奥深くの部屋にシュミットはたどり着いた。
「ここだ」
 一言だけ言って中に入っていく。中は他の客室とほぼ変わらない様子‥‥と言うより、本来は客間として作ったものの場所的に使いにくかったこの場所を、自分の部屋としたらしかった。
 中は酷く殺風景で、あまり人が生活しているという感じではない。シュミットが、外で暴れ回ってばかりでなかなか帰ってこないというのはどうも本当の事らしい。
「さて‥‥ここなら、邪魔も入るまい。で、何が始まったんだ?」
 座布団を二枚、押入から引きずり出し、床上に投げ置きながらシュミットは聞いた。
 エリザはその上に綺麗に正座をしながら、シュミットからは視線を外さずに答える。
「この旅館を、普通に使えるようにして差し上げようかと‥‥こう言っては失礼と思いますが、あまりに酷いものでしたので」
「ホテル王、ルクセンブルク家の令嬢の趣味と言うわけか?」
 エリザの前の座布団にあぐらをかいて座り込んだシュミットが、何げなく向けたその問いに、エリザは少しだけ驚きを表情に表す。
「知ってましたの?」
「知ってたから、来ない方に賭けた。こんなボロ宿に来るなんて何かの冗談だと思ったからな。だが、令嬢が変わり者だったおかげで、俺はパクにボーナスを払うハメになったわけだ」
「お生憎様ね」
 冗談なのだろうシュミットの言葉に、微笑みで返し、エリザはそのまま問うた。
「そしてその変わり者は、頼まれてもいないのに貴方の旅館の改装を始めた‥‥ご感想は?」
「別に何も。執着はしていなかったからな。どう変わろうとも、別に興味はない。ただ、こんな酔狂な事をする女に興味はわいた」
 シュミットの目に探るような光が浮かんだ。それは純粋な好奇心によるものと思える。
 エリザは微笑みを苦笑に変え、からかうような口調で言葉を返した。
「あら、口説くつもりですの?」
「いや? 珍しい生物を見つけた博物学者の気分だな。興味が先に立つ」
 それは、エリザにとっては侮辱のようにも思えたが、シュミットがこちらを探る為にそんな言葉をかけているのではと想像も出来た。
 そんな思考を巡らす中、自分が明らかに楽しいと思っている事‥‥それをエリザは確信する。
 どうやら、興味を引かれたのは、エリザもまた同じだったらしい。
 最初の恋人などの幾人かの例外を除けば、常に相手を簡単に手玉にとってきたエリザ‥‥だが、このシュミットという男はそれに対抗してくる。それでいて、エリザとぶつかる事はない。
 エリザは、このシュミットという男を、より深く知りたいと思うようになっていた。
「では、その珍しい生き物を心ゆくまで調べてみます?」
 エリザは瞳に艶を含ませてシュミットを見、次に正座していた膝を伸ばすと、シュミットの胸の中に飛び込む様にして彼の身体を押し倒した。
「私の生態調査と‥‥この宿の改装。その報酬は、貴方の体で頂く事にしますわ」
 エリザに押し倒された形のシュミットは、エリザの腕の下でニヤリと笑う。
「残念だが‥‥」
 と、シュミットが腕に僅かに力を入れる。すると、簡単にエリザの体はくるりと回り、体勢が入れ替わった。
「女に押し倒される趣味はない」
「押し倒す方?」
 問うエリザに苦笑めいた笑みを見せ、シュミットは報復とばかりにエリザの唇を奪った。
 僅かな時間、キスを楽しんだ後、シュミットは身を起こし、ついでにエリザに手を貸して立たせる。
「何にしても、今は腹が減ってそんな気にはならん。飯を食いながら、酒を酌み交わしてからでもかまわないだろう」
 シュミットは、外での荒事から帰ってきてから、何も食べていない。食事には無頓着ではあるが、空腹を抱えて情事に励むほどではなかった。
「‥‥そうね。メニューは何? もう、でたらめな和食は嫌よ?」
 パクの作った食事を思い出して言うエリザに、シュミットはあくまでも軽く言い返した。
「黒ビールの良いのがある。あとは、パクの奴にソーセージでも焼かせよう」
「ワインは無いの?」
 ビールよりもワインを好むエリザだったが、シュミットの方はもう完全なビール党らしく、エリザの問いを遮るように言い返す。
「ドイツが世界に誇るのはビールだ」
「あら、ドイツワインも十分に世界に誇れるわ。誰かに言って用意させるから、少し待っていて。」
 言葉を投げ合いながら、二人は食べ物を手に入れる為に部屋の外へと歩き出す。
 そしてその夜‥‥二人は同衾した。



 エリザが居座ってから二ヶ月が過ぎた。
 改装は着々と進み、旅館の変な装飾品は全て取り外され、シュミット屋は落ち着いた雰囲気の和風旅館となっている。
 そして一方、中にいる者たちは‥‥
「旦那様! いい加減、何とかするニダ! あの女をいつまで飼ってるつもりニダ!?」
 シュミットの部屋に突然怒鳴り込み、パクは大声でわめいた。
 パクはこの二ヶ月間、エリザが呼んだ和食の料理人から特訓を受けていたのだ。どうも、そのストレスがついに爆発したらしい。
 料理人が、蛇蝎のように嫌っている日本人であった事もあって、パクはそのまま無い事無い事並べ立ててシュミットに苦情を申し立てた。
 だが、一方のシュミットはというと、パクの必死の訴えを蝉の鳴き声ほどにも気にかけず、座布団の上に胡座をかきながら平然と答えた。
「‥‥別に、損はしてないからな」
「情けないニダ! 旦那様は悔しくないニダか!? ウリと旦那様の城だったこのホテルを、あのクソ女に踏み荒らされて‥‥」
「あのクソ女?」
 顔を真っ赤にしながら喚き散らしていたパクに、穏やかな声がかけられる。
 パクは一瞬でその動きを止め、恐る恐るその声の方向に目をやった。
 そこにいたのはエリザ‥‥哀れな虫けらを見ていますといった冷たい目で、パクを見据えている。
「アイゴー! いつからそこにいたニカ!?」
「最初からよ。貴方は興奮して気付かなかった見たいですけど」
 パクは驚くが、エリザにしてみれば何故に気づかなかったのか不思議なくらいだ。エリザはシュミットのすぐ側にいたというのに‥‥
「どうして、ここに居るニダか!? ここは、旦那様の部屋ニダ! 関係者以外は立入禁止ニダ!」
 パクは、なにやら先ほどの発言を誤魔化そうとでも言うのか、更に声を強めて根拠のない立入禁止を叫ぶ。
 しかし、エリザは表情一つ変えずに言葉を返した。
「じゃあ、大丈夫ね。今日からここの女将になったのよ。旅館の事は全部任せるって、シュミットからのお墨付きももらったわ」
「!?」
 パクは救いを求めるかのようにシュミットの顔を見る。しかし、シュミットはエリザの言葉を否定せず、ただ一言いった。
「まあ、そういう事だ」
 唖然とし‥‥そして、次に脂汗を流しながらガクガクと震え出すパクを見ながら、エリザは少し嬉しそうに言う。
「両親と喧嘩をして、帰れなくなったのよ‥‥両親のコネを使って、ここの改装とかに無茶をしたし、それに‥‥ね」
 エリザは自分のお腹にそっと触れる。
 だが、その動作の示す意味は、男二人にはわからないようだった。まあ、後で報せて慌てさせるのも一興かと思いながら、エリザはこの事を手紙で知っただろう父の事を思う。
 行きずりの男を相手に妊娠だなどと家の恥だと、絶縁状を送ってきた父親。
 それでも、銀行のカードを止めたり、勝手に借りたスタッフを引き上げさせようとしないのは最後の情けか‥‥それとも、誰かの圧力でもあったのか?
 ともあれ、勘当されたという立派な理由もあって、エリザはしばらくはここにいるつもりだった。この旅館を立派にしてみせ、勘当した娘の実力というものを見せてやるのも面白い。
「今まで通りに厳しくやるから覚悟してね。で‥‥今、何か言っていなかったかしら? 確か、聞くに耐えないような事を‥‥」
 エリザがそういうと、パクはすぐさま畳に頭をすりつけて土下座した。
「アイゴー! 女将さん! ウリは何も言ってないニダ!」
 何だか、すりつける頭との摩擦で、煙でも出そうな勢いで土下座をしている。
 エリザはそんなパクの姿を少しの間見ていたが、不意に優しげに声をかけた。
「パク料理長‥‥うちの板前が、手際は良いって褒めてたわよ。言う事を聞かないって苦情がついたけど」
 エリザに言われ、パクは頭を上げ‥‥褒められたという認識が頭の中に回りきるや、いきなり胸を張り、先の失言の事などすっかり忘れて、鼻の穴を広げつつ得意そうに言い放つ。
「ウリは元から、イルボンで修行してたニダ。もともと、イルボンの連中がウリの才能に嫉妬して追い出したくらいだったニダ。あんなチョッパリに教わる事なんか何もないニダ。ウェーッハッハッハ!」
 エリザはパクのどうでもいい話を話半分‥‥ついでにもう半分程度に聞き、どうせウリナラマンセーで突っ走って追い出されたのだろうと判断した。実際、知る由もないことだが、それは真実とそう遠くもない。
 ま、ともかくパクは腕の良い料理人であった。
 ただ、隙を見ては、彼一流のウリナラ料理をメニューに混ぜ込もうとする。そして、そのどれもが外国人受けしない。
 もちろん、それを誰もが注意するのだが、いっこうに聞き入れようとしないのだ。
「じゃあ、どうして真面目に和食を作らないのよ? 和食も得意なのでしょう?」
「イルボンの料理なんかより、ウリナラの料理の方がお客が喜んでくれるニダ」
 その、これは常識なのだとでも言わんばかりの台詞に、シュミットが苦笑を浮かべる。
「こいつの作るウリナラ料理も、美味い物は有るんだがなぁ‥‥とかく、和風旅館なんて酔狂な物に来ようとする客の口にはあわんらしい」
 和食は高級料理というイメージがつきまとうし、それに対応して繊細な芸術性の高い料理として発展している。
 しかし、ウリナラ料理というのは、下層の人々が好んで食べそうな物が多い。実際、下層階級の人々の料理が元だから仕方がないのだが。
 どちらかと言うと粗野で食べ物にあまり拘らないシュミットが、パクの料理を褒めるのはわかる気がした。もっとも、お嬢様出のエリザには絶対に理解できない食文化であろうが。
 で、ウリナラ料理を和食と偽って出すとどうなるか‥‥つまり、高級レストランで安売りハンバーガーを売るような物だ。
 余談だが、ウリナラ人による、この手の誤魔化し和食店は実際に結構あり、世界各地で誤解を撒き散らしている。和食と書くと儲かるからという理由で和食を看板に掲げ、内容は全く違う物を売っているのだから酷いものだ。
 その点、パクはまだウリナラ料理への根拠の全くない絶対的自信から、客へのサービスのつもりでやっているので罪はないかも知れない。死ぬほど迷惑ではあるが。
「ま、パク料理長の方は良いでしょ。腕は良いんだから、今度からちゃんと和食だけ作ってくれれば」
 それが多分、無理なんじゃないかと思いながらもエリザは言う。と、その時、部屋の外から挨拶を練習する声が聞こえてきた。
 新しくこの旅館で働く事になる娘達が、エリザの呼んだスタッフの下で研修をしているのだ。
 シュミットはその声に彼女たちの散在を思い出したのか、エリザに問いを投げる。
「で、新しく雇った従業員というのは何だ?」
「やっぱり、応対するのは女の子の方が良いでしょう? それから、従業員じゃなくて仲居ね。日本じゃそういうらしいから」
 まあ‥‥実家のホテルから借りたスタッフは、そろそろ引き上げさせなければならない。
 だからといって、エリザとパク二人だけの状態になるというのもまた無意味な話だ。
 となれば、やはり人を雇うより他にないだろう。そして、雇うなら、エリザの個人的趣味もあり、若い女の子が良い。
「使えるのか?」
 シュミットが何気なく聞く。ホテルを自分で動かすつもりはないと明言してる以上、興味からでしかないのだろう。
 その質問にエリザは、にこやかに微笑んで、何事でも無いかのように言った。
「大丈夫よ。全員、味見はすませたから。みんな、良い子ばかりよ?」
 パクは何も気づかなかったようで、まだエリザに褒められた事を誰にというでもなく自慢していたわけだが‥‥シュミットの方は、エリザの言葉の意味に気づいて苦笑した。
「少なくとも俺は浮気の言い訳を考えないですむわけだな」
「あら、意外と嫉妬深いかもしれなくてよ?」
 エリザは、そんなシュミットの反応に軽口で答え、そして部屋の隅でまだ小躍りを続けているパクにはつらつとした声をかけた。
「さ、いつまで遊んでいるの!? 明日から本格始動よ! お客をどんどん入れるんだから‥‥もちろん、料理長にも頑張ってもらうわよ!」
 パクは踊るのを止め、胸を一つドンと叩いて答える。
「任せて欲しいニダ! 腕によりをかけたウリナラ料理を‥‥」
 直後、パクが言い終わる前にエリザがどこからか取り出して投げたフライパンが、パクの顔面を襲っていた。
 ‥‥パクを引きずるようにして、なにやら楽しそうに出て行ったエリザを見送り、一人で部屋に残っていたシュミットは、胡座を崩して畳の上に大の字に転がって呟く。
「ま、何にせよ‥‥退屈はしない。面白い女に会えたものだ」
 特に何の感情を込めたと言うわけでもないその台詞‥‥しかしそれは、シュミットの人生にとって最も重要な意味をもつ言葉であった。



 そして‥‥エリザという新しい住人を加え、シュミット屋の物語は始まっていく‥‥


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