宿のソファにもたれかかり、ご機嫌よく鼻歌を歌いながらヴィクトリア・アシュレーは、上等なワインを味わっていた。こんなに機嫌のよいヴィクトリアは滅多にない。隣接している浴室ではルージョンのアルがせっせと洗濯をしているのがなんとも気の毒である。
「アル、この自分が教師になるんだぞ。ウソみたいな話じゃないか」
「ウソじゃないといいんですけどね」
こもったようなアルの返事が返ってくる。それは決して意地悪ではなく浴室から答えているからだとヴィクトリアは思うことにした。
「ダメ元で言ってみるものだな。あの学院長、非常に興味深い御仁だ」
「とにかく、マスターがお仕事にありつけたのはありがたいことです。貯金がほとんど尽きていましたから」
「そんなバカな。二十年かけて貯めた金だぞ」
「その二十年かけて貯めたお金をあっという間に飲み尽くしてしまったのはどなたですか」
アルの容赦ない言葉。だが、ヴィクトリアは堪えた様子もない。
「職につけたのだから、いいではないか」
そのとき、ドアがノックされた。どうやら客のようだ。とはいえ、色恋沙汰には縁のないヴィクトリアにこんな夜遅く来客があるというのは滅多にないことである。飲みかけのグラスをテーブルに置くと、用心のため剣を背に隠し持ってから、ドアを少しだけ開けた。
「誰だ?」
そこには見知らぬ女が立っていた。年の頃は二十代後半、ラグーン人らしい燃えるような赤い髪を最新流行のヘアスタイルで結い上げ、ゴージャスなドレスに贅沢な宝石を身につけているいかにも貴族然とした美しい女性である。質素な宿にはどう考えても似つかわしくない格好だった。
女性は、ヴィクトリアの右手に握られた剣を見て叫んだ。
「まあ、それは引っ込めていただけます? わたくし、ベアトリーチェ・フェリーニと申しますの。ヴィクトリア・アシュレーさんでいらっしゃいますわね?」
「その通りだが、なにか自分に用でも?」
「ええ。立ち話もなんですので、お部屋に入れてくださいます?」
ベアトリーチェはそう言うと、優雅にドレスの裾をつまむと招かれてもいないのに中に入り、当然のごとくソファに腰をかけた。何事かとアルが浴室から出てきて、ベアトリーチェの姿を認めると命令されてもいないのに慌ててお茶の準備を始めた。
アルのいれたお茶を一口すすり、「あら、お茶の入れ方がお上手ですこと」と滅多にヴィクトリアには誉めてもらえないアルをおだてた後、ベアトリーチェは今日ここに来た用件を話し始めた。
「あなたのお兄様のレイモンドと、わたくしの妹のビアンカが結婚していることはご存じ?」
実は初耳である。次兄レイモンドにはもう二十年以上会っていない。ヴィクトリアは首を振った。
「自分は実家との縁はほとんど切れているのだ」
「ええ、妹からそのように伺っておりますわ」
ベアトリーチェは特に驚いた様子もない。ヴィクトリアは、早くベアトリーチェが本題に入らないかと内心いらいらしながら、次の言葉を待つ。ベアトリーチェはヴィクトリアを品定めするかのようにじっと見つめていたが、やがて口を開いた。そのまなざしは、男だったらころりと参りかねないくらいになまめかしい。
「実はたってのお願いがあって参りましたの。レパード様…いえ北方軍のために戦っていただけなかしら」
「断る」
ヴィクトリアはそっけなく答えた。
「先日この地で職を見つけたばかりなのだ。今あえて傭兵になる必要を感じていない」
「まあ!」
ベアトリーチェは上品に声を上げた。
「職ってどんなお仕事ですの?」
「機甲兵操縦訓練の教師だ。エクシズの戦でもいずれ機甲兵が中心となっていくだろう。自分はそのために尽力するつもりでいる」
「ですけど、北方軍が負けたらそんな流ちょうなこと言ってられませんわよ。あのメンドーザ男爵がバレーゼの支配者となってしまうのですから」
ベアトリーチェは「あの」と言うときそのとき美しい眉をきゅっとひそめた。
「そうなればラグーンも戦乱に巻き込まれることでしょう。そしたら、ここでのんびりと先生をしているわけにはいかなくなりますわ」
「……」
ヴィクトリアは黙りこくった。ベアトリーチェの言うこともあながち間違ってはいないだろう。とはいえ、せっかく教師の話が実現化しそうなこのときに、傭兵として再び戦場に赴くのはあまり楽しい話とは言えなかった。
そんなヴィクトリアを見たベアトリーチェがたたみかけるようにこう言う。
「もちろん、わたくし報酬をケチったりはいたしませんわよ。通常の報酬以外にヴィクトリアさんの望みをできる限りかなえて差し上げるつもりでおりますから」
「望みといわれても…」
するとベアトリーチェがいいことを思いついたというようにぽんと手をたたいた。
「そうですわね、たとえば、せっかく教師になるのでしたら、サン・エクシズで軍事関係の知識を学んでくるとか? ひとに教えるとなるとそれなりの知識と技能が必要になりますわよ」
「…確かに」
ヴィクトリアはうなった。ベアトリーチェの言うことは間違ってはいない。せっかくなら教師としての技能を磨いてみたい気もする。貯金が底をつきかけている今、ベアトリーチェの申し出は非常に魅力的だった。しかし、問題はある。いくら機甲兵乗りは重宝されると言っても、北方軍に肝心の機甲兵がなくては自分はただの歩兵以下だ。ここは帝国ではない。いくらアガーナ商会が暗躍していても、おいそれと機甲兵が準備できるものではないだろう。
ヴィクトリアは、長い足を組み直した。
「で、北方軍とやらに予備の機甲兵はあるのか?」
ベアトリーチェは、困ったように目を伏せた。ヴィクトリアはベアトリーチェが機甲兵に関してはずぶの素人だと言うことを思い出し、優しくこう説明した。
「機甲兵はそうおいそれと用意できるものではない。いくらアガーナ商会が売り出し始めたとは言っても、そう量産はできないだろう。北方軍に何体機甲兵があるかは貴女には分からないのだな」
ベアトリーチェは申し訳なさそうにうなずく。ヴィクトリアはため息をついた。
「それでは申し訳ないが、自分は協力できない。機甲兵乗りは機甲兵があってこその存在ゆえ」
「…それでは、わたくしではレパード様のお役に立つことはできないのでしょうか…」
ベアトリーチェは哀しそうにうつむき肩を落とす。ヴィクトリアは居心地が悪くなった。まるで自分がこの女性をいじめているかのように思えてきたのだ。
「その…レパード様とは誰のことであるか?」
とたんにベアトリーチェの頬が赤く染まった。
「レパード様は…ムギールのニールス侯のご嫡男ですわ。とてもご誠実でお優しい好青年でいらっしゃいます」
聞かれていないことまでしゃべっている。
「つまり、貴女はその殿方のためになんとかしたいというわけか」
「ええ…実はその通りですの」
まるで少女のようにはにかんでいる。とても子持ちの未亡人には見えない。ヴィクトリアはこほんと咳払いをした。
「あー、そのー、機甲兵はないわけではない」
「本当ですの?」
ベアトリーチェの青い瞳が期待にきらきらと輝き始めた。ヴィクトリアは言いにくそうに続ける。
「だが、それはここサン・ガーリアの国立魔術錬金術探求学院のものである。先日、帝国兵が学院を攻撃してきて…」
「なんですって? 帝国兵がサン・ガーリアにいるだなんて信じられませんわ」
ベアトリーチェが遮った。ベアトリーチェの疑問は当然だろう。サン・ガーリアはエクシズ共和国の真ん中にあるのだ。普通に考えれば帝国兵がわいて出るはずがない。
「その理由は自分にも分からぬ。遺跡にあるという昔の機甲兵を狙っているらしいが。ま、連中の置き土産というやつだな。しかし、やたら大きいのだ」
「大きいのですか? 大きい方がいいのではないですか?」
とんでもない、とヴィクトリアは首を振った。
「大きいため燃費は悪いわ、操作性は悪いわ、あまりいい機体とは言えぬ。しかも運搬が大変なのだ。帝国と違って、『大地の風』なる便利なものはこちらにはないときている。本当は『青銅の猪』もあるのだが、あれは別な者が使っている」
「でも、それを貸してもらえればヴィクトリアさんはわたくしに協力してくださいますの?」
うーむ、とヴィクトリアはうなった。このずうずうしいもののなんとなく憎めない女性のために一肌脱いでもいいかという気分になりかけているのは事実だが、ユアン・ボイルがあれを貸してくれるかどうかは全然別問題だ。本当は帝国兵(しかもその帝国兵が乗っていた機甲兵はアガーナ製ときている)に襲撃されたサン・ガーリアではあるが、政治的な理由なのだろう、強盗団におそわれたことになっている。(エクシズ人でありながら長年帝国兵だった)ヴィクトリア自身、叩けば埃が出るため、その辺はあえて言及しないことにしている。
返事を渋っているヴィクトリアを見て、ベアトリーチェは言った。
「とりあえず、わたくしユアン・ボイル氏にお願いしてみますわ。もし、学院に寄付が必要というのなら、それ相応の寄付も考えなくては」
(まだ、自分は承諾しておらぬぞ)
とヴィクトリアは内心思ったが、なんとなくそれでもいいような気もしてきた。行き当たりばったりの人生もそれはそれで楽しいものだ。長年帝国軍に所属し、上からの命令に従って戦うという人生を送ってきたとはいえ、今のように自分の意志で生き方を決められる方が性に合っていることが分かった以上、多少の寄り道をしてもいいかもしれないと思い始めたのである。もしかしたら、単にベアトリーチェに丸め込まれただけなのかもしれないが。
「…ぶしつけであることは承知の上で、一つ聞かせてくれぬか?」
ヴィクトリアはおもむろに尋ねた。
「貴女はレパード殿のために自分を雇おうと考えているようだが、いずれニールス侯夫人になりたいという野心からであるか?」
ベアトリーチェの瞳が心外なことを言われたという風に見開かれた。
「そんなこと全然考えておりませんでしたわ! わたくし、別に玉の輿に乗りたい訳ではありませんのよ。これでも貴族の端くれ。その大変さはいやというほど知っております。皆が思うように贅沢な暮らしをしていれば良いものではありませんのよ。わたくしがヴィクトリアさんに求めていることは、レパード様を私の代わりにお守りしていただき、北方軍を勝利に導いてほしいというだけですわ」
熱っぽく語るその口調には、ウソは感じられなかった。ヴィクトリアは声を上げて笑った。
「それを聞いて安心した。貴女の場合本当に純粋なお気持ちからなのだな。分かった、協力しよう。その代わり報酬は期待している。それと、機甲兵のことはお任せした」
「まあ! ありがとうございます。もちろんご期待に添えるよう精一杯努力してみますわ」
ベアトリーチェは嬉しそうに胸に手を当てた。それから、つぶやくようにこう言う。
「…愛する者の死はもう見たくありませんの」
それを聞いたヴィクトリアは心の中でつぶやいた。
(愛する者を死なせたくないという貴女の気持ち、確かに受け取ったぞ)
ベアトリーチェが立ち去った後、アルがこう言った。
「本当によろしいのですか? せっかく職が決まったばかりだというのに」
「いいのだ。自分で決めたことだからな。愛する者のためになりふり構わず奔走するマダム・ベアトリーチェ、けなげだとは思わぬか?」
「私には分かりません」
それを聞いたヴィクトリアは豪快に笑った。
「まあ、そうであろう。だが見たこともない皇帝のために命をかけて戦うよりは、美しいご婦人の恋のために戦う方が絶対楽しいではないか。俄然おもしろくなってきたぞ。人生はこうでなければ」
「人間は複雑なのですね」
「その通りだ」
ヴィクトリアはうなずくと、新しい仕事を祝して秘蔵のブランデーの瓶を開封した。
「黒軍にはあのノイエタークがいるそうだ。強敵だぞ」
「生き残りたいのなら、直接対決は避けるべきですね」
「もっともだ。だが、アル、戦場では敵は選べないのだぞ」
「分かっております。私はマスターのために尽力するだけです」
「うむ、よろしく頼む」
そう言いながら、ヴィクトリアはブランデーの豊穣な香りを楽しんだあと、口の中に含み満足そうにうなずく。それを見たアルはぼそっと言ったのだった。
「どうせなら浴室で飲んだらいかがでしょうか。裸になったところで、誰も困りませんから」